2013/12/31
#054 年始年末を襲う無気力
年始年末無気力に襲われる。普段と同じ日なのに外に出ようとする気力が失われるのは、なにか年末らしいことをしなくてはという焦りのせいか。そこから一歩も動けなくなっている姿は、正月という巨大な獣の前で全身の毛を逆立ててすくむ小動物のようだ。フィルムの現像もできなかった。フリマの売れ残りを捨てることもできなかった。夏に撮った写真を友人に見せることもできなかった。他にも無数にある。はっきり言えば、自分は年内にやろうと思ったことをひとつも、本当にひとつもやりとげられなかった。この文章を書いたこと以外は、なにもできなかった。完膚なき敗北の姿である。
2013/11/30
#053 きたな
毎日ここになにか書いてるけど辛さ感じてきたな。こんなこと書くのもインターネットにゴミのポイ捨てするようなもんで気が引けるけどおれの自己満足のために捨てさせてくれや。醜い顔してるだろうないま。
2013/11/29
#052 インターネット
減量の勢いが落ちてきて、精神的にも肉体的にも停滞してきた。そんな中で身体に良い食べ物や調理法のことなんかを考えると、すこしだけモチベーションがあがる。レシピや食材について検索をしていると、なんだかなにを調べても同じようなことしか出てこない気がしてインターネットってこんなだっけ?と首を傾げたくなることがある。インターネットの情報の中にゴミが増えたというより、ゴミばかりなのでみんなゴミのように振る舞うようになってしまっているように感じる。ブログって昔はもっと有用な情報が載ってた気がするんだがな?おれ自身もこんなこと書いてていいのか?まともな使える情報を書いたほうがいいんじゃないか?と思わされた。日本のインターネットはすべてSNSとはてなブックマークとまとめサイトに収束していくような気がして、暗澹たる気持ちになるんだ。
2013/11/28
#051 減量日記
今日は筋トレジョギングを行うつもりだったので、すこし食べる量を増やしたけど、やはり胃の内容物が少ない方が調子がいい。筋トレといってもハードなものでもないわけだし、まだ減食を続けるべきかなと思った。それにしてもARBはいいなあ(毎日聴いてる)。つぶやきみたいな日記だ。
2013/11/27
2013/11/26
#049 食
減量中ということで食べ物のことについて検索していたら、大豆やナッツなどの素晴らしさに気づいてしまった。米を炊く時に押麦を混入させるとか、今まで全く知らなかった世界だ。減量を考えることで逆に食生活が豊かになる気すらするな。…大豆の煮物、生姜と玉ねぎのスープ、アボカド、ナッツを砕いて蜂蜜を混ぜてオーブンにかけたグラノーラ、まだ実践はしてないけど炭水化物や肉を使わなくても、うまいメシは作れるのかもしれないな。
2013/11/25
#048 気乗り その気
やっと痩せる気になった。この、その気になるっていうのは重要なことで、いくら他人から言われても、自分で宣言をしても、ダメな時はダメってもんでこのメカニズムってのはなんなのか気になる。結局、他人をどうこうしようなんて無理な話で、なにか心が動くってのは偶然でしかなくて、狭い街角で行き違ったときにたまたま身体が触れるようなものなんじゃないかと思っている節がおれにはある。だいたい他人を説得できたことないしな。悲観的というか敗北主義的(この言葉の意味よくわからないがおれは好きじゃない)というか、友達が去っていくのだって心が離れていくのだってどうこうできるもんじゃないという、そういう冷たさみたいなもんだろうか。そんな風にずっと思ってきたけど最近は、本当はこれってよくないのかもしれないな…と思うことがある。自然なものを無理矢理どうこうするのは…みたいなよくわからないモラルに縛られてる気もする。柳ジョージの「STAY」という曲に"あの頃に戻るんだ"という一節がある。通常おれたち(いや、"おれ"か)は、あの頃にはもう戻れないもんだという諦めというか潔さというかそういうものと一緒に生きてる気がするけど、この"あの頃に戻るんだ"というフレーズは変に頭に残ってて時々思い返す。痩せる気になった話を書こうとしたのに、ずいぶんとズレたな。
ところでARBの「AFTER '45」の"狭い街角で出会った"っていう歌詞は、たまたまの出会いでたまたま心が通じた、みたいなそんな…うーん言葉にできない。下に歌詞抜粋するのでなにか感じられたら感じてください。
ブログで歌詞引用はダメなんだっけか? まああとで考えるわ…
ところでARBの「AFTER '45」の"狭い街角で出会った"っていう歌詞は、たまたまの出会いでたまたま心が通じた、みたいなそんな…うーん言葉にできない。下に歌詞抜粋するのでなにか感じられたら感じてください。
アフター1945 俺達は生まれ 狭い街角で出合った
揺れる1985 過去は過去のモノ 手をのばしてみる 夜明けに何だろうね…もう丑三つ時なんで頭も動きませんね。
ブログで歌詞引用はダメなんだっけか? まああとで考えるわ…
2013/11/24
#047 日記
あまり体重減ってないな。汗をかきにくい季節だからかもしれない。夏に運動すると目に見えて数字減ってたからな。そろそろ筋トレとジョギングを取り入れていく時期かもしれない。闇雲に歩くだけだと効率が悪い。食事のほうは良好で、だいぶ摂生できてる。摂生?節制?どっちだったか…まあいいや、朝になったらささみでも茹でるか…
2013/11/23
#046 初台
食事の量を減らして必ず歩くようにしているので少し調子が良くなってきた。少しづつ体力が戻ってきている気がする。そう思いたい。
真夜中過ぎに初台近辺を通った。山手通りを跨ぐ歩道橋にのぼって、2009年に何度かここで写真を撮ったことを思い出した。あの頃は山手通り地下の首都高速が工事中で、歩道橋も今のようなエレベーターの備わったものでなく、仮設だった。歩道もボコボコだったのがきれいに整備されており、あのどこか荒涼とした町外れのような空気はもうなくなっていた。
…あれ?やっぱり違う場所だったか?感傷的になって損したな…
真夜中過ぎに初台近辺を通った。山手通りを跨ぐ歩道橋にのぼって、2009年に何度かここで写真を撮ったことを思い出した。あの頃は山手通り地下の首都高速が工事中で、歩道橋も今のようなエレベーターの備わったものでなく、仮設だった。歩道もボコボコだったのがきれいに整備されており、あのどこか荒涼とした町外れのような空気はもうなくなっていた。
…あれ?やっぱり違う場所だったか?感傷的になって損したな…
2013/11/22
2013/11/21
#044 減量
今日は食事の量を減らし、水分を多く摂るようにした。炭水化物減らせとはよく言われるが、あまりに減らしすぎてもよくない上にリバウンドしそうなので、明日からは少ない量にした上でなるべく三食を心がけるか。身体が重いと何事も億劫になってくるから、早く減らしたい。つぶやきみたいな記事になってしまった。
2013/11/20
#043 摂生
本日より、というか今から痩せることにしました。ただ運動するだけではダメだと悟り、食事減(内容にも気をつける)、有酸素運動、筋トレをすべて同時に進めていくことにしました。でもね、有酸素だ!っていってひたすら歩いてたら足の裏の皮が剥けるわ、なんとなく関節は痛いわで、もう少し体重減らしてからでないといかんようです。だからジョギングとかはまだ勘弁してください。おれからは以上です。
2013/11/19
#042 更新ペース
このまま毎日更新を続けるかどうか迷っている。毎日書くと、それだけが目的になって中身がどうでもよくなる恐れはないかと。どうでもよくなるというと今までたいそうなことを書いていたように見えるが、もちろんそんなことはないので結局同じかなとも思う。どっちにしろ、なにかを書かずにいられないなんていう衝動は持ってないんだな、結局。抑えきれない思いなんてものはもう無くなった。…なにをセンチメンタルなことを書いてるんだ、おれは。結局今日も更新しちゃったよ。
2013/11/18
#041 窓の中と街の印象
夜の散歩をしているときに街にたくさんの窓のあることを思うとなんだかグッとくるということはすでに書いたけど、その街が繁華街ではない寝静まった住宅街で、かつ川や緑が近くにあると、そういった眺めがなんだか自分が今まで触れたことないような自然さで存在しているように思えてくる。窓際の観葉植物や本棚やCDラックの影も、その内部にある人々の生活がとても健全で快活なものであることの証明に見えてきて、そんなとき窓の外を歩いている自分はなんだか幽霊のようだなあと思ったりもする。世田谷やそれより先の野川付近を訪れたとき、そんな感傷によくとらわれたものだった。街の印象というか思い込みが、似たような風景であってもそんな風に思わせるのだろう。東京生まれでありながら、東京の街に幻想を持つというのは不思議なことだ。幻想というより、現実の街に二重写しに重ねている半透明のなにかといったほうが正しい気がする。それ越しに街を見ることによって…似たようなことは前にも書いたな。こんなことばかり考えている。ほかの人たちが持ってる街に対するファンタジーのようなものをいちど聞いてみたい気がする。
2013/11/17
#040 ジョセフ・クーデルカ展に行った
今日は東京国立近代美術館のジョセフ・クーデルカ展に行ってきた(日記風に書くのは初めてだ)。いつも国立近代美術館と国立西洋美術館の区別がつかなくなるんだよな…閉館が17時だというのに、着いたのが16時頃でじっくり見る時間がなかったのは痛かった。どこか行こうと思ったら、午前中から出ないとダメだね。約束でもしてない限り、ズルズルと出渋ってしまって気づけば夜になっているということはよくある。ちゃんと朝起きてるのにな。
ジョセフ・クーデルカという人物についてはほとんど知らないまま見に行った。どういう人物かは検索してもらったほうが早いので書かないけど、デカいのから小さいのまで、やたら迫力ある白黒の写真が280枚鑑賞できると思ってもらえればいい。
写真を見ていて思ったのは、やっぱりフィルムって実体として存在感あるなあということと、写真を撮っている人の存在が感じられるなということ。正直あまり写真について考えたことがない(というかあまりモノを考えない)ので、写真の歴史や表現といったものに基づいた感想は出てこないんだけど、おれが自分の存在を消して写真を撮りたいと思っていることとは、正反対の位置にあるような気がした。そしてやっぱりおれは嘘が多いなあと思った。自分の存在を消してるんだもんな。嘘だよな。正直おれみたいなのはイカンのかもなあと鑑賞中に感じまくっていたのだった。と、まあ自分の話にもっていくのもアレなので、どんな写真が展示されていたかというと、プラハの春(検索してくれ)を撮った有名な写真のほか、雑誌の表紙になったものや演劇を撮ったもの、巨大なパノラマ写真、ロマ(ジプシー)の人たちを撮ったものなどがズラッと並んでいるのだが、なかでも亡命後に異国で撮った"エグザイルズ Exiles 1970-1994"というシリーズが印象深かった。寝転んだ足下の花と靴とか、犬とか、道路脇の樹木とか、日常といえば日常なんだけど、なんでこんなキマってるんだ?といった感じ。ビタッとしてるんだけどその中にある寄る辺なさが現れているようで、でもそれを感じきるには時間が足りなかったな。もう少し長い間見ていたかった。
800円で280枚もの写真が見れるし、常設展示もある(実際かなり見応えある)。webサイト見て気になったら、行ってみるといいと思うよ。おれももういちど、今度はちゃんと時間をとって見たいと思っている。やっぱりじっくりと見て、ノってくるまで待たなきゃいかんよ。だから次からは午前中に行くんだ。たぶん。
ジョセフ・クーデルカ展 (東京国立近代美術館webサイト)
http://www.momat.go.jp/Honkan/koudelka2013/
ジョセフ・クーデルカ展 (東京国立近代美術館webサイト)
http://www.momat.go.jp/Honkan/koudelka2013/
2013/11/16
#039 夜歩くこと
夜歩くという行為は、他のなにものとも代え難い特殊な体験であると、今日久々に散歩をしてみて再確認した。運動のためでもない、目的地へたどり着くためでもない、ただ徘徊するという行為だけがある。飲みに行ったついでだとか、ライブを見た帰りとかではダメだ。ただ歩くという行為だけがあるのが散歩である。散歩は目的を持たない行為だ。目的がない行為というのは、我々の日常ではそう多くない(インターネットは除外せよ)。
だから夜の散歩を体験したことのない読者諸君も、思いきって夜の街路に迷い込んでみてほしい…と書いたところで、夜の散歩ってそんなに稀少な体験か?と思えてきた。もしかして、おれの思い入れが異常なのでは?撮る写真もほぼ夜だし、映画や小説の作品名で夜という言葉がついただけでなにか神秘的に思えてくるし、それならむしろ夜は自分だけのものにしておいたほうがいいのでは?そんな気がしてきた…夜は俺のもの…梅宮辰夫かよ。俺の夜は夜遊びじゃないんだ、もっと神聖なものなんだ…
だから夜の散歩を体験したことのない読者諸君も、思いきって夜の街路に迷い込んでみてほしい…と書いたところで、夜の散歩ってそんなに稀少な体験か?と思えてきた。もしかして、おれの思い入れが異常なのでは?撮る写真もほぼ夜だし、映画や小説の作品名で夜という言葉がついただけでなにか神秘的に思えてくるし、それならむしろ夜は自分だけのものにしておいたほうがいいのでは?そんな気がしてきた…夜は俺のもの…梅宮辰夫かよ。俺の夜は夜遊びじゃないんだ、もっと神聖なものなんだ…
2013/11/15
#038 かかっている
今日聴いた音楽
ARB / 自分のプレイリスト
cools / ベスト盤から何曲か
eastern youth / 旅路ニ季節ガ燃エ落チル
eastern youth / Don quijote
eastern youthのアルバムを久しぶりに通して聴いた。
歩きながら聴いていると、歩行のリズムが自然と音楽に同調していく。
もしかしたら歩行に適した音楽を選ぶようになっているのかもしれない。
eastern youthのアルバムは気分が落ち込んでいた時期によく聴いたせいか、
再生するたびにそのとき目にしていた風景が脳内に甦ってくる。
日曜早朝の青梅街道と夜の公衆トイレで蜘蛛の巣から抜け出そうとしていたダンゴムシ。
どうみてもダメだと思ったのに、見事抜け出ていたな。
ARB / 自分のプレイリスト
cools / ベスト盤から何曲か
eastern youth / 旅路ニ季節ガ燃エ落チル
eastern youth / Don quijote
eastern youthのアルバムを久しぶりに通して聴いた。
歩きながら聴いていると、歩行のリズムが自然と音楽に同調していく。
もしかしたら歩行に適した音楽を選ぶようになっているのかもしれない。
eastern youthのアルバムは気分が落ち込んでいた時期によく聴いたせいか、
再生するたびにそのとき目にしていた風景が脳内に甦ってくる。
日曜早朝の青梅街道と夜の公衆トイレで蜘蛛の巣から抜け出そうとしていたダンゴムシ。
どうみてもダメだと思ったのに、見事抜け出ていたな。
2013/11/14
2013/11/13
2013/11/12
2013/11/11
#034
親戚などの集まる場でなにを喋るということもなくただ静かに座っている、そんなお爺さんが必ずひとりはいなかったろうか。大叔父にあたる人がそうだった。食卓に座って黙って飲むか飯を食うかしている。人間の行き先のひとつとしてこの姿こそあるべきものだ、そういう気持ちになることが最近よくある。
時々、自分があまりにも喋りすぎているような気になる。声帯を震わせて発声する、そのやり方だけでなく、こんな風に文章をタイプしていくこと、写真を撮ったりすること、そんなことすべてひっくるめてあまりにおしゃべりが過ぎるのではないか、そう思うときがある。今はだいぶおろそかになってしまっているが、夜の街の写真を撮ることが日課のようになりはじめたとき、カメラを据えてそれを撮っている人間の存在が薄くなればなるほどいい、そう思って徘徊を続けていた(これは今になって思いついたことでなく、始めた当初からずっと頭にあった)。自分の存在が完全に消えて、それでひとつの風景が完結するようなそんな思い込みのようなものがあった。現実にはハンドルネームとご大層なタイトル入りで写真をアップしていたので、それを実現する気があったのかどうかわからない。
おれが日々やっているのは、空白を埋めるために喋る、ドラッグとしての発話だ。
時々、自分があまりにも沈黙しすぎているような気になる。なにかが頭の端にのぼるとき、頭蓋骨の中になにか固いゴムのようなものがあって、それで思考と発声が阻まれているような気分になることがある。なにもかもを黙ったままでうまくやり過ごせることはないのかもしれない。そんなことをメモに残していたことに気づいた。ひとりの人間の死が生きている人間に及ぼす自己省察の作用は、思いもよらぬ形をとることがある。
自分の存在を消しきった写真を撮って、それに個人的な景観という名前を与えようとしたのは、今となっては奇妙なことのように思われる。
2013/11/10
#033 今年も西田ひかるのお誕生会に呼ばれなかった
西田ひかるのお誕生会に呼ばれないまま2013年が終わるかと思うと目の前が真っ暗になる。
別に真っ暗にはならないし、だいたい西田ひかるのお誕生会ってなんだよって感じだけど(西田ひかるという元アイドルが毎年誕生パーティやるのが恒例なんだそうだ、昔の芸能界の話だろうね)、もう終わりかと思うとゾッとするどころか逆に何の感慨もなくなってきた。だったらなんでブログに書いてんだよと言われるだろうけど、去年のツイッターのログを読んでたら上記のようなことを一歳若いおれがつぶやいてたのでリサイクルしたんだ。他につぶやくことが思いつかなかったんでな。つまりこれも酒と同じように空白を埋める行為なのか…と考えると、なんだかこう生きることがそのまますべて依存症の所産のような気がしてきて、それこそ目の前が真っ暗になるな。いやそこまでじゃないか…
なんだか人間常にイニシエーションを強制されているというか、どのクランに属するかどうかの決定を強制されているような気分になることが増えてきた。話がつながってるようでつながってない気がするな…ついでに言っておくと、いわゆるホモソーシャルな付き合いというのがおれは大嫌いで、いやこれは別に特定の誰かに対する当てつけでは決してないんだけど、とにかく野郎同士の暗黙の了解的な感覚に対する嫌悪が近年急速に強まっている。かといって人に対しておれがそういう感覚をまったく押し付けていないかというとそれも微妙なところで、酒のような人間の理性に作用するようなドラッグ(悪魔が目を覚ますぞ)を前にすると若干身構える感じがある。うまくまとまった文章とは言いがたいが、こんな風に常にブレーキレバーには指をかけていなけりゃならないのだ。野獣が目を覚ますからな。
別に真っ暗にはならないし、だいたい西田ひかるのお誕生会ってなんだよって感じだけど(西田ひかるという元アイドルが毎年誕生パーティやるのが恒例なんだそうだ、昔の芸能界の話だろうね)、もう終わりかと思うとゾッとするどころか逆に何の感慨もなくなってきた。だったらなんでブログに書いてんだよと言われるだろうけど、去年のツイッターのログを読んでたら上記のようなことを一歳若いおれがつぶやいてたのでリサイクルしたんだ。他につぶやくことが思いつかなかったんでな。つまりこれも酒と同じように空白を埋める行為なのか…と考えると、なんだかこう生きることがそのまますべて依存症の所産のような気がしてきて、それこそ目の前が真っ暗になるな。いやそこまでじゃないか…
なんだか人間常にイニシエーションを強制されているというか、どのクランに属するかどうかの決定を強制されているような気分になることが増えてきた。話がつながってるようでつながってない気がするな…ついでに言っておくと、いわゆるホモソーシャルな付き合いというのがおれは大嫌いで、いやこれは別に特定の誰かに対する当てつけでは決してないんだけど、とにかく野郎同士の暗黙の了解的な感覚に対する嫌悪が近年急速に強まっている。かといって人に対しておれがそういう感覚をまったく押し付けていないかというとそれも微妙なところで、酒のような人間の理性に作用するようなドラッグ(悪魔が目を覚ますぞ)を前にすると若干身構える感じがある。うまくまとまった文章とは言いがたいが、こんな風に常にブレーキレバーには指をかけていなけりゃならないのだ。野獣が目を覚ますからな。
2013/11/09
#032 無
記事投稿画面と向かい合ってもう1時間ほど経っているが、今日は本当に何も出てこない。だいたい、おれはモノを考えることが少ない。考えというにはあまりにも細切れで断片的なので、それをメモしようと思っても紙に書き付けたとたんに違う何かになってしまう。文字という形をとって現れるものと、頭の中のゴチャゴチャが同じな訳がない。頭の中のゴチャゴチャは言葉だけでなく映像や音や匂いや触覚も含んだもので、だから同じなわけがない。それらを整理して文章という形にしても、もう違うものだよな。当たり前か。
ここまで書いたら、なんで毎日ブログなんて書いてるんだ?って気持ちになってきた。どうでもいいか。喋ってるみたいに書いていけばいいんじゃないの?喋るってお前は誰と喋ってるんだ?自分か?おい、今の「お前」って誰だ?おかしいな。一人増えてないか?そういえばここにはおれ一人しかいなかったはずだぞ?誰だお前!
ここまで書いたら、なんで毎日ブログなんて書いてるんだ?って気持ちになってきた。どうでもいいか。喋ってるみたいに書いていけばいいんじゃないの?喋るってお前は誰と喋ってるんだ?自分か?おい、今の「お前」って誰だ?おかしいな。一人増えてないか?そういえばここにはおれ一人しかいなかったはずだぞ?誰だお前!
2013/11/08
#031 過度の飲酒を避けるために
酒を飲むときのシチュエーションとして飲み屋、宴会、クラブなどの盛り場などがあるが、単純に味を楽しむ酒、付随するコミュニケーションを楽しむ酒の他に、空白の時間を埋めるドラッグとしての酒がある。あなたが手にしたそのグラスは、本当にあなた自身の身体・心が欲してのものだろうか?いや、あなたが、なんていう言い方で他人にかぶせるのはやめよう。おれは時に間を持たせるために仕方なく酒を飲んでいる。経験上これ以上はまずいな、というラインを身体は知っているように思う。なのにそのラインを飛び越えてしまうのは、空白を恐れてのことだ。恥ずかしいことだが、そうとしかいいようのない夜が多くある。煙草は吸わないし、麻薬をやったこともないが、酒に関する自分の行動を省みるとき、依存症の素質が自分にあることは否定できないなと思う。
もう一度言っておこう。おれが手にしたそのグラスは、本当におれ自身の身体・心が欲してのものだろうか?
2013/11/07
#030 間をもたせる
今日は酒を飲んだ。それほどの量を摂取したわけではないのだが、いま気分が悪い。つまりこのブログの記事にも影響する。吐くほどに自分の身体を害してしまえば、その日の楽しい記憶も幾らか損なわれるものだ。酒を飲まずに場を楽しむ、間をもたせることができる人を本当に尊敬している。間をもたせるために人は酒に手を出す。中島らもがそんなことを言ってなかったっけか。酒がなくとも場を楽しむ、間をもたせることができる人をおれは本当に尊敬している。
2013/11/06
#029 ロッキー
1976年のアメリカ映画「ロッキー」をご存知だろうか。知ってるに決まってるでしょうが!という声が飛んでくると思うのは、もはや古い人間なのかもしれない。ロッキーといえば、あのテーマ曲が有名でスポ根的場面で頻繁に引用される作品だ。
はじめに言っておくが、ロッキーがスポ根脳筋(脳みそ筋肉の意)映画というのは誤解だ。主人公のロッキーが脳筋の愚かな男に見えたのなら、それはあなたの目が曇っているか、あるいは彼があなたの偏見を鏡のように映しているということだろう。それから映画評論の世界では、ニューシネマで執拗に敗北を描いてきたアメリカ映画が、このロッキーでは勝利と栄光を描いたとよく言われているが、それも間違っている。脚本を書いたスタローン自身がDVDの特典映像でコメントしている。ロッキーの輝きはほんの一瞬のもので、あの夜の後はひっそりと彼の生が続いていくと。あまりに印象的すぎるテーマ曲のせいで、試合シーンとトレーニングシーンばかりに視線が注がれてしまい、カンフル剤的な消費のされ方をしてしまうのは致し方ないかもしれないが、ロッキーの名シーンはそれ以外にもあるはずだ。
この映画の柱の一つとして立っているのは、ロッキーとエイドリアンの二人の関係だが、渋るエイドリアンをデートに誘い終業時間寸前のスケートリンクで、ただただ自分の話ばかりし続けるロッキーなど、脳筋という言葉で片付けられない人間性を感じるではないか。それに映画の序盤で試合を終えたロッキーが鏡と向かいあい、傍らに貼ってある少年時代の自分の写真と今現在の顔とを見つめるシーン。典型的なアメリカ娯楽映画というくくりで片付けられないものがそこにはある。少し他作品に言及するが、1999年のイギリス映画「トゥエンティフォーセブン」で、主人公である中年男性が食料品店の女性店員をぎこちなく誘うシーン、「8mm」で娘を亡くして泣き暮らしていた母親がうっすらと化粧をしてニコラス・ケイジを出迎えるシーン、ケン・ローチの「レディバード・レディバード」で、主人公のシングルマザーがベット・ミドラーの"Rose"を歌うシーンなど、それら個人的な名シーンの系譜に連なる珠玉のヒューマニズムといっていい場面がこの作品には無数にある。そしてロッキーに登場する人物、主要キャラクター以外の酔漢や物売り、歌う若者やその他の街の人たち、ロッキーが歩き走るフィラデルフィアの路上と街そのもの、何一つ取りこぼさず作品の中に迎え入れる姿勢は、脳筋アメリカンドリーム映画とするにはあまりも人間味に溢れすぎているだろう。この映画は勝利を描いたものではないが、希望を描いた映画と言えると思う。憎しみに溢れ、醜いものを醜く描き、えぐり出すような今の時代の作品に食傷気味の諸君には、このロッキーにこそ得心がいくものが見つかるだろう。
はじめに言っておくが、ロッキーがスポ根脳筋(脳みそ筋肉の意)映画というのは誤解だ。主人公のロッキーが脳筋の愚かな男に見えたのなら、それはあなたの目が曇っているか、あるいは彼があなたの偏見を鏡のように映しているということだろう。それから映画評論の世界では、ニューシネマで執拗に敗北を描いてきたアメリカ映画が、このロッキーでは勝利と栄光を描いたとよく言われているが、それも間違っている。脚本を書いたスタローン自身がDVDの特典映像でコメントしている。ロッキーの輝きはほんの一瞬のもので、あの夜の後はひっそりと彼の生が続いていくと。あまりに印象的すぎるテーマ曲のせいで、試合シーンとトレーニングシーンばかりに視線が注がれてしまい、カンフル剤的な消費のされ方をしてしまうのは致し方ないかもしれないが、ロッキーの名シーンはそれ以外にもあるはずだ。
この映画の柱の一つとして立っているのは、ロッキーとエイドリアンの二人の関係だが、渋るエイドリアンをデートに誘い終業時間寸前のスケートリンクで、ただただ自分の話ばかりし続けるロッキーなど、脳筋という言葉で片付けられない人間性を感じるではないか。それに映画の序盤で試合を終えたロッキーが鏡と向かいあい、傍らに貼ってある少年時代の自分の写真と今現在の顔とを見つめるシーン。典型的なアメリカ娯楽映画というくくりで片付けられないものがそこにはある。少し他作品に言及するが、1999年のイギリス映画「トゥエンティフォーセブン」で、主人公である中年男性が食料品店の女性店員をぎこちなく誘うシーン、「8mm」で娘を亡くして泣き暮らしていた母親がうっすらと化粧をしてニコラス・ケイジを出迎えるシーン、ケン・ローチの「レディバード・レディバード」で、主人公のシングルマザーがベット・ミドラーの"Rose"を歌うシーンなど、それら個人的な名シーンの系譜に連なる珠玉のヒューマニズムといっていい場面がこの作品には無数にある。そしてロッキーに登場する人物、主要キャラクター以外の酔漢や物売り、歌う若者やその他の街の人たち、ロッキーが歩き走るフィラデルフィアの路上と街そのもの、何一つ取りこぼさず作品の中に迎え入れる姿勢は、脳筋アメリカンドリーム映画とするにはあまりも人間味に溢れすぎているだろう。この映画は勝利を描いたものではないが、希望を描いた映画と言えると思う。憎しみに溢れ、醜いものを醜く描き、えぐり出すような今の時代の作品に食傷気味の諸君には、このロッキーにこそ得心がいくものが見つかるだろう。
2013/11/05
#028 街場の記憶
吉祥寺という街が東京西部にあってこれはおれが青春時代を過ごした思い出深い街として有名なのだが住みたい街ナンバーワンとしてメディアに取り上げられるせいか"鼻持ちならないシャレオツ勘違いサブカル"(こういう揶揄多すぎだぜ)が集まる虚無タウンとして中傷されることが多くなった。それはおいといて、読者諸君は吉祥寺サンロードにあったニューヨークという古着屋を覚えておいでだろうか?覚えてても覚えてなくても知ってても知らなくても話は別に続かないのだが、そんな風に馴染んできた街なのに、最近、というかここ5年ほど、どうにも居場所がないような所在ないような、そんな気分になることが増えてきて、あぁ終わったんだな…(なんだかわからないけど)と思うようになった。おれから言わせれば、吉祥寺はシャレオツタウンというよりは、学生街プラスアルファのような親しみ深い街なのだ。いせや(飲んだことなし)しかり、ハモニカ横丁(飲んだことなし)しかり、クリーンさからは程遠いような猥雑さこそが本質なのだ。18になるまでほとんど行ったことなかったけど。ここまで言ってアレだけど、本質とかはわりとどうでもよくて、結局あの頃つるんでた仲間とともにあった記憶を懐かしんでいるんだなと思うし、それはたまにポケットから取り出して舐めているアメのようなものだったなと思う。こんな風に昔のことを喋る(ブログだから"書く"か)時だけ変に饒舌になるのもなんだか寂しい。つまるところ、街の記憶というのは人とともにあって、それはどこまでいっても社会的な性質を持っているのかなと思う。そりゃそうだ、街は荒野じゃない。
2013/11/04
#027 追い越す
昔っから("っ"を入れて強調した)気になってるんだけど、ストリートを歩いていて、前を歩いてる人を追い越すとき、追い越すおれをチラッと警戒するように見てくる人、あれはなんなのでしょう?夜道で後ろを警戒するのはわかるけど、普通に昼間の往来であれをやられると、ただでさえ殺伐としてるのにますます荒んでくるのでね。
…わかってるよ、おかしいのはおれの方だ。と書いたところで、おかしいのはおれか?あんたらがどうかしてるんじゃないのか?という思いが…視野角が広いのかなんなのか動くものに敏感なので、いちいち気に障ることが多い気がする。だから夜でもサングラスかけてるならすべて解決する。おいなに見てんだお前!
…わかってるよ、おかしいのはおれの方だ。と書いたところで、おかしいのはおれか?あんたらがどうかしてるんじゃないのか?という思いが…視野角が広いのかなんなのか動くものに敏感なので、いちいち気に障ることが多い気がする。だから夜でもサングラスかけてるならすべて解決する。おいなに見てんだお前!
2013/11/02
#026 同じ服をずっと着ている
寒くなって冬服を出す時期になると毎回、同じ服をずっと着ていることに気づく。冬場に着ているのは、中綿のジャケット、ナイロンの分厚いジャケット、古着の革のジャケットの3種類(2種類しか服ないと言ったな、あれは嘘)で、前2着は2006年に買ったもの、革は1999年に買ったものだ。もっと最近に買った服もあるにはあったが、あまり気に入らなくて結局売ってしまった。靴は主に履いているのは2足で、それも3年以上履いている。帽子は2002年に買ったものがいまだに現役である。Tシャツにいたっては、2001年から着ているものがある(信じられないだろうがgoodwearのTシャツは頑丈なのだ)。
なにか新しい服を買おうかというときに、すでにあるスタイルの中から選んでいく力がおれには無いなといつも思う。こういうのに乗っかっていこうとかそんなことが考えられなくて、完全にその服単品で着たいか着たくないかしか考えられない。こういう文脈の中でこういうデザインがあってだから好きとかいうのもないので、プリントTシャツもなにを選んでいいのかまったくわからない。なので無地のTシャツしか着ない。スニーカーもわからない。見た目の善し悪しを判断できないので、サイズとか機能とか頑丈さで選ぶしかない。なにかを判断するに必要な材料が足りないのか、それとも好きとか嫌いとかそういった感性がどこかの時点で摩滅したのか、とにかく膨大な衣類を前にして好きに選んでいいと言われても、おれは思考停止するだろうなという思いがある。何年も人付き合いが少ない状態が続いていたし、特に服にまったくこだわりのない知り合いしかいなかったので、そのせいもあるだろうとは思っている。
Tシャツを買おうと思っていたら、もう冬になってしまった。
靴も1足傷んで壊れかけている。
#025 窓
深い夜に街を歩いていると、灯りのついている窓がたくさんあるのに気づく。ひとつひとつの窓の中にそれぞれの暮らしがあって、というのはよくある感傷だけど、窓に映る観葉植物の影や点滅するルータのランプなどが、いかにも夜といった感じで、見上げながら歩いていると写真を撮りたくなる。人の家の窓を写真に納めるというのは倫理としてはどうなのか、あるいは不審人物と思われないか、そんなことが気になって実際に撮ることはない。写真を撮る時の自分なりの線引きというのは、無意識にいつも頭の中にあるような気がする。そして、それを口実に撮らないことも多いのではないかと、自分の行動を振り返って思うこともある。
2013/10/31
#023 吉兆と凶兆と感覚
少ないながらも、何度か人の死に立ち会ったことがある。病人が息を引き取る前の室内に、ガスのような独特な匂いが漂っていたのを思い出す。昔飼っていた犬が死んだとき、弱って床に横たわる犬のそばにいると、同じガスのような匂いが漂っていた。最初に犬が臥せったときは、もう死んでしまうなどとは思いもしなかった。その日の夜中に犬は死んだ。あとから考えてみればあの匂いが鼻を突いたときに、もう命が短いということを自分自身解っていたように思う。あれがおそらく死臭というものなのかもしれない。死臭は停止した肉体だけが出すものではないようだ。
顔貌や声が記憶からたやすく失われてしまうのに対して、匂いや触覚は人間の感覚の中を想像以上に長く生き延びる。死臭のような凶兆とも言える感覚があるのなら、それとは反対に、吉兆と呼べる匂い、触覚、そんなものもあるのかもしれないとも思う。
顔貌や声が記憶からたやすく失われてしまうのに対して、匂いや触覚は人間の感覚の中を想像以上に長く生き延びる。死臭のような凶兆とも言える感覚があるのなら、それとは反対に、吉兆と呼べる匂い、触覚、そんなものもあるのかもしれないとも思う。
2013/10/30
#022 真顔
最近よく使っている言葉に"真顔"という言葉がある。単に表情を指すわけではなく、姿勢、概念といった意味で(ほぼ自分ひとりだけで)使っているのだけど、きっかけは友人が発した「浜省はなにやっても常に真顔なんだよね」という言葉だった。浜省は浜田省吾のことで、彼の真摯な人間性は音楽を聴くとよくわかる(たぶん)のだが、その一方でネタ的に扱われやすい。ダウンタウンが浜省だらけの野球対決なんてネタにしてたでしょう。あの感じ。"MONEY"も有名な曲のせいか、パロディ的な扱われ方することが多い。悪意のあるものではないとは思うけどね。浜省の話はおいておこう。とにかく"真顔"という概念が発生したのは、こういういきさつでだった。
自分の中での"真顔"の概念、それは暑苦しい真剣さでも、他人に強いるような謹厳さでもなく、他者への寛容と、弱さを認める勇気、タフさ、いつも静かに微笑をたたえているような類いの、一種の人間性であると規定されるようになった。数ヶ月という時間を経て深まっていった"真顔"、この言葉をあらためて頭の中に巡らせてみたとき、思い浮かんだ名は、ケン・ローチだった。イギリスの映画監督で、作風については各自検索してほしいが、そのケン・ローチの作品である"マイ・ネーム・イズ・ジョー"の主人公が自分の中の"真顔"を体現する人物として浮かび上がった。"ジョー"は、アルコール依存と戦う失業中の中年男で、決して明るいとはいえない状況のなか、ローカルのサッカーチームの監督をし、若者たちからの人望厚い人物だ。彼は、依存症患者の集まる自助会で、自分が過去に犯した罪や、現状に対する不安を正直に口にする、そしてそれから起こる様々な出来事の結果、彼は過去と同じように再び決定的な間違いを犯すことになるのだが、彼の"真顔さ"すべてが損なわれたわけでなく、本当に小さなかすかな希望を残ったことを示して物語は終わる。正しさだけが"真顔"なのではなく、悪をなすこと、目にすることによって近づく"真顔さ"、自分を殺さない"真顔さ"がジョーという人間にあった。
こんな風に"真顔"に惹き付けられる自分はもちろん真顔ではなく、自分に正直でもなく、悪くふざけがちな人間だが、音楽、映画、なんでもいい、これからどんどん発掘していって、この"真顔さ"という概念を広めていきたい。
自分の中での"真顔"の概念、それは暑苦しい真剣さでも、他人に強いるような謹厳さでもなく、他者への寛容と、弱さを認める勇気、タフさ、いつも静かに微笑をたたえているような類いの、一種の人間性であると規定されるようになった。数ヶ月という時間を経て深まっていった"真顔"、この言葉をあらためて頭の中に巡らせてみたとき、思い浮かんだ名は、ケン・ローチだった。イギリスの映画監督で、作風については各自検索してほしいが、そのケン・ローチの作品である"マイ・ネーム・イズ・ジョー"の主人公が自分の中の"真顔"を体現する人物として浮かび上がった。"ジョー"は、アルコール依存と戦う失業中の中年男で、決して明るいとはいえない状況のなか、ローカルのサッカーチームの監督をし、若者たちからの人望厚い人物だ。彼は、依存症患者の集まる自助会で、自分が過去に犯した罪や、現状に対する不安を正直に口にする、そしてそれから起こる様々な出来事の結果、彼は過去と同じように再び決定的な間違いを犯すことになるのだが、彼の"真顔さ"すべてが損なわれたわけでなく、本当に小さなかすかな希望を残ったことを示して物語は終わる。正しさだけが"真顔"なのではなく、悪をなすこと、目にすることによって近づく"真顔さ"、自分を殺さない"真顔さ"がジョーという人間にあった。
こんな風に"真顔"に惹き付けられる自分はもちろん真顔ではなく、自分に正直でもなく、悪くふざけがちな人間だが、音楽、映画、なんでもいい、これからどんどん発掘していって、この"真顔さ"という概念を広めていきたい。
2013/10/29
#021 帰り道について
クラブやライブ、飲み会など、賑やかな場所に出かけたその帰り道でふと襲われる虚しさ、昔は自分だけだと思っていたが、どうも予想以上に多くの人がこの妖怪に危害を加えられているらしい。たくさんの人としゃべり、笑い、楽しんだはずなのに、電車の座席に座って弁護士事務所の過払い金返還訴訟についての広告を見るともなく見ているときに襲われる虚無はなんなのか…
単純に楽しい時間が終わってしまったという寂しさだけじゃないでしょう、あれは。自分の経験と聞いた話などを材料に少し思いを巡らせてみると、どうもその楽しい場で受け取れるはずの決定的な何かを受け取れなかったのではないかという自省のような思いが帰り道で反芻されるのでは、という結論に至った。つまりは不完全燃焼に近いと。あるいは、人によっては楽しいこととか、うれしいこととか、そういうプラスの感情(とされる)ものを受け取るにも許容量があって、限界を超えると自動的に虚しみに襲われるようになっているとか、そんな機械的な反応の可能性もある。
そもそも虚無とか虚しみとか、自分で言っていて具体的にどんな状態なのか言い表せないわけで、正体がわからない以上、こちらから打って出るのは難しい。こいつらに襲われないようにするには、どうしたらいいかというと、これらの事象について人と語り合うしかないのではないかと思う。だからみんなもこの街のこの道で虚無に襲われたとか、そういう情報をどんどん共有していくべきだと思う。
ちなみに一日中街を歩いたあとの肉体的な疲労からくるポカンとした感じは嫌いじゃない。
単純に楽しい時間が終わってしまったという寂しさだけじゃないでしょう、あれは。自分の経験と聞いた話などを材料に少し思いを巡らせてみると、どうもその楽しい場で受け取れるはずの決定的な何かを受け取れなかったのではないかという自省のような思いが帰り道で反芻されるのでは、という結論に至った。つまりは不完全燃焼に近いと。あるいは、人によっては楽しいこととか、うれしいこととか、そういうプラスの感情(とされる)ものを受け取るにも許容量があって、限界を超えると自動的に虚しみに襲われるようになっているとか、そんな機械的な反応の可能性もある。
そもそも虚無とか虚しみとか、自分で言っていて具体的にどんな状態なのか言い表せないわけで、正体がわからない以上、こちらから打って出るのは難しい。こいつらに襲われないようにするには、どうしたらいいかというと、これらの事象について人と語り合うしかないのではないかと思う。だからみんなもこの街のこの道で虚無に襲われたとか、そういう情報をどんどん共有していくべきだと思う。
ちなみに一日中街を歩いたあとの肉体的な疲労からくるポカンとした感じは嫌いじゃない。
2013/10/28
#020 いいのぜ
最近本当にA.R.B.ばかり聴いていて我ながらおかしいんじゃないと思うことが多い。まるで今という時代のために書かれたような曲ばかりだよ。これを読んだら、youtubeなりなんなりで検索して聴いてほしい。歌詞にも注意してな…余計なお世話スマソ。つい、な…それでな、youtubeにアップされた初期A.R.B.の動画を見ていて、おれは人間にはその時々にしかない輝きっていうものがあるんじゃないかということを考え始めた。(もちろん歳を重ねたうえでの良さというのはある、それは間違いない。)
なんちゅうかなこう…偉そうなことは言えないけどアー…いま若くて自分のやっていることがなんとなくダサくてかっこわるくて嫌になっている人もいるかもしれないけど、もしかしたらそれはそんなにかっこわるいことでもないんじゃないの?そう思う。これ…前段と全然関係ない気がするな…
なんだか、かっこわるいことはなんてかっこわるくないんだろうみたいなそんな、いやこれは単なる言葉遊びだな。とにかく、今とか過去とか関係なく、痛さとかそういうものを許してもいいし、それどころか、かっこいいものとしてもいいんじゃないかと思う。現在過去未来、なにもかもがジャッジされる世の中なんて俺は嫌なんだよ!
なんちゅうかなこう…偉そうなことは言えないけどアー…いま若くて自分のやっていることがなんとなくダサくてかっこわるくて嫌になっている人もいるかもしれないけど、もしかしたらそれはそんなにかっこわるいことでもないんじゃないの?そう思う。これ…前段と全然関係ない気がするな…
なんだか、かっこわるいことはなんてかっこわるくないんだろうみたいなそんな、いやこれは単なる言葉遊びだな。とにかく、今とか過去とか関係なく、痛さとかそういうものを許してもいいし、それどころか、かっこいいものとしてもいいんじゃないかと思う。現在過去未来、なにもかもがジャッジされる世の中なんて俺は嫌なんだよ!
2013/10/27
#019 傘
雨が降るといつも傘なんて必要なのか?と思う。濡れるのを防げるのは頭と肩くらいで、結局腰の辺りまで濡れるだろうが!と、毎回憤っている。だいたい人間がいま現在当たり前に使っている品々はまだ不便な点だらけだと思う。といっても、どう改善すればいいかは思いつかないんだけどな。
2013/10/25
#018 I haven't got a stitch to wear
着る服がないんだ本当に。もちろん太ったからなんだけど、それにしたってこれはないだろうというくらいに、着る服がない。無印のパーカ(パーカー?どっちなんだ、誰か教えてほしい)2着しかない。下に着るTシャツすら悲惨なことになっている。太るとシャツばかりになる(ごまかせるので)、しかしシャツの上に着るような服は持ってない、というか秋の服はまったく持ってない、Gジャンしかない、Gジャンはサイズジャストなので今は着れない、八方塞がりだ!
おれもプリントTシャツを着てジーンズを穿いてスニーカーを履きたい人生だった…プリントTシャツ、あれ普通なようでいて実は難しいだろ?なぜそのプリントを選んだのか、着用者の審美眼が直に問われるじゃないか。おれは、自分のセンスを堂々と開陳して街を歩けないルーザーだ…何を選んだらいいかわからないので、Tシャツを買うときはいつも無地のものを選んでいた…そんな自分に別れを告げるために次はプリントTシャツを買うかというと、そんなわけでもなくまた無地のものを買おうとしている。しかも色は黒と白で同じものをいくつも買おうと思っているので、結局人間変わらないものだと感じている。そもそも服を選ぶのに迷いたくないので2種類の服しか持ってないという設定だったことを忘れていた。とりあえず痩せたら、Tシャツと上に羽織るもの買ってそれでおしまい!そういうことにしました。ああ、靴もボロボロなのでなにか買わなければいけなくなるだろうな…スニーカーでいいのかな。ブーツはあるしな。
今日は心ここに在らずなので、つぶやきみたいな記事になってしまいました。
おれもプリントTシャツを着てジーンズを穿いてスニーカーを履きたい人生だった…プリントTシャツ、あれ普通なようでいて実は難しいだろ?なぜそのプリントを選んだのか、着用者の審美眼が直に問われるじゃないか。おれは、自分のセンスを堂々と開陳して街を歩けないルーザーだ…何を選んだらいいかわからないので、Tシャツを買うときはいつも無地のものを選んでいた…そんな自分に別れを告げるために次はプリントTシャツを買うかというと、そんなわけでもなくまた無地のものを買おうとしている。しかも色は黒と白で同じものをいくつも買おうと思っているので、結局人間変わらないものだと感じている。そもそも服を選ぶのに迷いたくないので2種類の服しか持ってないという設定だったことを忘れていた。とりあえず痩せたら、Tシャツと上に羽織るもの買ってそれでおしまい!そういうことにしました。ああ、靴もボロボロなのでなにか買わなければいけなくなるだろうな…スニーカーでいいのかな。ブーツはあるしな。
今日は心ここに在らずなので、つぶやきみたいな記事になってしまいました。
#017 幻としての東京
あまり旅に出ることがないが、地方の風景に興味がないわけでもなくて、機会があって出かけるようなことがあれば、それなりに興味をもって他国(江戸時代感覚)の風景を見ている。自分はいわゆる田舎の風景、田園風景などに幻想をもったことは意外となくて、何を思うでもなく、ただ眺めていることが多い。
しかし自分が生まれた場所である東京に対しては強固な幻想、幻としての東京を手放したくないという思いがある。ここで重要なのは、その幻というのは、首都東京であるとか都市という概念であるとか、そんな抽象的なものではない。それは単純な風景、景観とそれに付随する空気や色や温度湿度という身体的なもので、体感として受け取ることができるものでなくてはだめだ。条件さえ整えば、いつだって味わうことのできる幻…もうずっと長い間そんなものは見ていないのだけど、そうではなくてはならないという思いがずっとある。甚だ未整理な文章であるけど、こんなことが前提として頭の中にある感じかな。
しかし自分が生まれた場所である東京に対しては強固な幻想、幻としての東京を手放したくないという思いがある。ここで重要なのは、その幻というのは、首都東京であるとか都市という概念であるとか、そんな抽象的なものではない。それは単純な風景、景観とそれに付随する空気や色や温度湿度という身体的なもので、体感として受け取ることができるものでなくてはだめだ。条件さえ整えば、いつだって味わうことのできる幻…もうずっと長い間そんなものは見ていないのだけど、そうではなくてはならないという思いがずっとある。甚だ未整理な文章であるけど、こんなことが前提として頭の中にある感じかな。
2013/10/24
#016 寝覚めのメモ(再掲)
おはようございます。
夢の中で、友達と夜の住宅街を自転車をふたりのりして子供のように走り回っていた。
プラスチックの銃のような形をしたなにかを、あらゆるものに狙いづけながら、めくら滅法走り回る。コイツの本当の握り方はこうなんじゃないかなと自分が言えば、いや今のままでいいんだと答える。そうか、と答えながら、手の中で自分なりの握り方をしてみる。彼は一つ年上で、僕は彼が自分とまったく同じでないということがあっても気に病むこともない。まったく同じでないということ、それ以外では自分たちはまったく同じだからだ。
銃のような形のプラスチックはやっぱり僕のするような握り方を要求していると思っている。それで彼は自転車を止めて行き過ぎる車にちょっかいを出す。パトカーかと思った車はタクシーで、僕たちは闇に紛れるように縮こまって歩いていった。公園の隅には煌々と灯りがあって猫がハンモックのようなもので寝ていた。なにか二言三言、彼と交わした後、目を覚ました。目を覚まして、もう何年も経ったということ、忘れてしまったことが幾つもあることに気がついて、横たわったまま、悲しいと感じていた。
—
もう会わなくなった友達が出てきた夢を覚えておこうと、明け方の布団の中で携帯にメモした文章。
夢の中で、友達と夜の住宅街を自転車をふたりのりして子供のように走り回っていた。
プラスチックの銃のような形をしたなにかを、あらゆるものに狙いづけながら、めくら滅法走り回る。コイツの本当の握り方はこうなんじゃないかなと自分が言えば、いや今のままでいいんだと答える。そうか、と答えながら、手の中で自分なりの握り方をしてみる。彼は一つ年上で、僕は彼が自分とまったく同じでないということがあっても気に病むこともない。まったく同じでないということ、それ以外では自分たちはまったく同じだからだ。
銃のような形のプラスチックはやっぱり僕のするような握り方を要求していると思っている。それで彼は自転車を止めて行き過ぎる車にちょっかいを出す。パトカーかと思った車はタクシーで、僕たちは闇に紛れるように縮こまって歩いていった。公園の隅には煌々と灯りがあって猫がハンモックのようなもので寝ていた。なにか二言三言、彼と交わした後、目を覚ました。目を覚まして、もう何年も経ったということ、忘れてしまったことが幾つもあることに気がついて、横たわったまま、悲しいと感じていた。
—
もう会わなくなった友達が出てきた夢を覚えておこうと、明け方の布団の中で携帯にメモした文章。
2013/10/23
#015 シャドーシティー
古い町並みだとか、寂れた商店街だとか、そんな風景を見るとつい写真を撮りたくなるが、ああいったものがなぜ、人を惹きつけるかについては、考えたことがない。と書くと、今から考察が始まると思うだろうがそんなことはない。
おれはそんないまはもうパッとしていないか、あるいは無用になってしまったものを見ると、たくさんの人が集まって愛されて祝福されていた、そんなある一時期の光景を眼前の現実に重ねて再生してみる。だがそれらが一度だって輝いてたときがあったのか?誰にだって全盛期があるように思われがちだが、そんなことはないだろう。かの有名な映画ロッキー(いい映画なのですぐに見た方がいい)で「俺には全盛期なんてなかった!」と言うワンシーンがあるが、そいつはその通りでそうだというしかない。寺尾聰の曲でシャドーシティーというタイトルがあるが(寺尾聰なのですぐに聴いたほうがいい)、一度も陽の目を見ることなく朽ちていった風景をシャドーシティーと呼んでいったらいいんじゃないか、そう思った。本当にたったいま、そう思った。
おれはそんないまはもうパッとしていないか、あるいは無用になってしまったものを見ると、たくさんの人が集まって愛されて祝福されていた、そんなある一時期の光景を眼前の現実に重ねて再生してみる。だがそれらが一度だって輝いてたときがあったのか?誰にだって全盛期があるように思われがちだが、そんなことはないだろう。かの有名な映画ロッキー(いい映画なのですぐに見た方がいい)で「俺には全盛期なんてなかった!」と言うワンシーンがあるが、そいつはその通りでそうだというしかない。寺尾聰の曲でシャドーシティーというタイトルがあるが(寺尾聰なのですぐに聴いたほうがいい)、一度も陽の目を見ることなく朽ちていった風景をシャドーシティーと呼んでいったらいいんじゃないか、そう思った。本当にたったいま、そう思った。
2013/10/21
#014 fov
すごく眠い 町の明かりを見ていたらなんだかもうクリスマスのような空気が漂い始めている気がした。気温でも空気の湿度でも匂いでもないし、これはなにがきっかけになってるんだ、眠いからか、そうか…(中断)
皮膚感覚でもなく、匂いでもないなら、視覚経由で感じとったということで、ならその原因はなんだと考えてみると、どうもそれは汚れた窓越しに見たからではないかと。冬といえば、空気が澄んで遠くまで見えるイメージがあるけど、吐く息は白く、ストーブに乗せたヤカンは湯気を出し、焚き火がスモークを上げるものな。だから視界不明瞭であることに冬を感じてもおかしくはないことなのだと自分を納得させた。
クリアーで鮮明な視界だけじゃない、ザラザラしてブレてるのが本当の夜の姿だろっていう写真のムーブメントがあったそうじゃないか?写真だけじゃない、自分の視界だってリアルタイムで加工してもいいんだ、そんな気分で夜にサングラスをかけていることがある。明度を下げた街の姿は実に夜っぽく、青くはなく黒々としているが、こいつは正直危ない。主に安全の面で。ヘッドライトを消して漆黒の闇を走るのも楽しそうだが、できそうにもない行為だ。せめて特殊なゴーグルでも装着して、夜を改造して楽しみたいもんだ。
皮膚感覚でもなく、匂いでもないなら、視覚経由で感じとったということで、ならその原因はなんだと考えてみると、どうもそれは汚れた窓越しに見たからではないかと。冬といえば、空気が澄んで遠くまで見えるイメージがあるけど、吐く息は白く、ストーブに乗せたヤカンは湯気を出し、焚き火がスモークを上げるものな。だから視界不明瞭であることに冬を感じてもおかしくはないことなのだと自分を納得させた。
クリアーで鮮明な視界だけじゃない、ザラザラしてブレてるのが本当の夜の姿だろっていう写真のムーブメントがあったそうじゃないか?写真だけじゃない、自分の視界だってリアルタイムで加工してもいいんだ、そんな気分で夜にサングラスをかけていることがある。明度を下げた街の姿は実に夜っぽく、青くはなく黒々としているが、こいつは正直危ない。主に安全の面で。ヘッドライトを消して漆黒の闇を走るのも楽しそうだが、できそうにもない行為だ。せめて特殊なゴーグルでも装着して、夜を改造して楽しみたいもんだ。
2013/10/19
#013 窓から
窓から外を見ると角の寿司屋はまだ店を開けていて不思議な気分になる(この一文を書いたのは20時頃)。それはいいとして、読者は幼少時にこんな想像をしたことはないだろうか。
窓から外を眺めているとーそれが深い夜であればなおのことー、自分がいまいる家というものが、天地を動き続ける列車のような移動体に思えてくる、そんなことはなかっただろうか。と、ここまで書いてなにも浮かばなくなったので、いつものとおりに書き散らしていくか。こういうモービルホーム憧れ(ザックリした言葉だな)って、アメリカ発祥なんだろうか。古くは開拓時代の幌馬車から、現代のトレーラーハウス…あれは動かすものではないらしいが…、移動に対する強迫観念めいたものは、自分たちの生殺与奪権を誰にも握られたくないというか…銃を持つ権利だとか…そんなことはどうでもいいや。
不自由なことばかりで本当に嫌になるぜ!
不自由なことばかりで本当に嫌になるぜ!
#012 段差
太って身体が重いので、動きづらい。単純に走るのが遅いとか、そういう水平方向の動作よりも、腿くらいの高さの段差を降りたり上がったりという垂直方向の動作に入る時に、状況が悪化した場合の深刻な鈍重さを予感する。運動神経のよい活発なタイプであった読者諸君には想像もつかないかもしれないだろうが、この"自分の身体をうまく扱えないという感覚"は、おれのような運動音痴(この言葉、あまり使いたくはないが)にとってはそう馴染みの薄いものではない。と、ここまで書いておいて、もう特に言うべきことはない。つまり、体重を落とせばある程度の自由は戻ってくる、ということをおれは言いたいのだろうか?言いたいことも話したかったことも、全部眠気の中に吸い込まれてしまったようだ。また今度。
#011 文章
既に19日の朝になっているが、就寝前なので18日の分の記事として投稿する。
どうも人間はじめから好きなものばかりではなく、ある瞬間に、これが今必要だ、と合点がいくような、救いになってくれるような表現がある気がする。表現と言っておいて、映画と音楽のことしか念頭にないけど、特に音楽は、はじめは全く感じ入るところがなかったのに、突然何回でも再生できるくらい好きになることが、時々ある。ない?まあなくてもいいや。こんな風に未整理なまま言葉を連ねていって何になるのかと考える。何週間、何ヶ月、何年、のちに自分がこの文章を読み返して何にもならない、そんな光景を頭の中で想像してみる。たぶんその想像の通りだろう。理性的に頭に思い浮かべた以上のことは起こり得ない、そんな風になっている気がする。いいことも悪いことも。
いま05:52。
朝になっちまったな。
2013/10/18
2013/10/16
#009 走るかな
あまりに太りすぎてもう着る服が無くなったので、走ることにした。6月に秋を先取りして買ったジャケットも着れない状態だし、動きづらくて出不精になってることは間違いない。ここで報告というか話題にしていけば、ある程度続いていくのではないかと期待している。
とは言うものの、今この記事を書くのにもえらい時間かけているし、大丈夫ですかね。
破戒したら破戒したでしょうがない、と今から言ってしまえば逆に続かないかな。というわけでちょっと走ってきます。
…
帰ってきました。相当なまっていたらしく、すぐに足が痛くなって歩きへと移行してしまった。そのうえ雨が降り出して、これはもう走るなということか、とめげそうになっていたら雨がやんだので、走って歩いてを繰り返してこれでokだということにした。アッつまんないな今日の記事…
とは言うものの、今この記事を書くのにもえらい時間かけているし、大丈夫ですかね。
破戒したら破戒したでしょうがない、と今から言ってしまえば逆に続かないかな。というわけでちょっと走ってきます。
…
帰ってきました。相当なまっていたらしく、すぐに足が痛くなって歩きへと移行してしまった。そのうえ雨が降り出して、これはもう走るなということか、とめげそうになっていたら雨がやんだので、走って歩いてを繰り返してこれでokだということにした。アッつまんないな今日の記事…
2013/10/15
#008 何も思わず
9月から10月にかけての時期、暑さが消えて風が冷たくなってくる時期には、なんとなく感傷的な気分になったりするものだとは言うけれど、自分について言えば、ここ数年はめっきりなくなった。数年どころじゃないかもしれない。金木犀の匂いというけど、特に匂いなんて感じずに歩いている自分がいる。こう、都内の街を歩いていても、どこへ行っても同じというか、どうしようもないなと思いながら歩いている。あまりに漠然とした言葉だとは思うけど、そうとしか言いようがない。俺が悪いのか。
そうはいっても街は変わっていってるらしい。下の写真は上から、東新宿、富久町、歌舞伎町。歌舞伎町はコマ劇跡にビルが建ち、広場のステージ状の構造物が取り除かれているし、すっかり変わってしまうのだろうか。でもあまり感慨深いとも思わないな…オリンピックが開催される2020年までにどれだけの変貌を遂げるのだろうか。…こういう文章もインターネット上にいっぱいあるんだろうな…自分で書いてて嫌気がさした、正直。
そうはいっても街は変わっていってるらしい。下の写真は上から、東新宿、富久町、歌舞伎町。歌舞伎町はコマ劇跡にビルが建ち、広場のステージ状の構造物が取り除かれているし、すっかり変わってしまうのだろうか。でもあまり感慨深いとも思わないな…オリンピックが開催される2020年までにどれだけの変貌を遂げるのだろうか。…こういう文章もインターネット上にいっぱいあるんだろうな…自分で書いてて嫌気がさした、正直。
#007 今年はギター音楽がくる
予知能力があるので今年はギター音楽がくると思っている。そろそろみんな演奏がしたくなっているんじゃないかな…
ARB - トラブルドキッズ
ARB - ONE WAY TRIP
ロックンロールはネタ的に捉えられやすい音楽だと思うけど、ARBは常に真顔なので今聴いた方がいい音楽だと思う。歌詞も味わって。ギター音楽なので生演奏の動画が適切だと思い、ライブ映像を貼った。そういう自分は生演奏聴きにいったりとか全然しないけど。
あと、ロックンロールじゃないギター音楽としてこういうのも来年あたりくるんじゃないかな。
Гитара семиструнная. Цыганская гитара.
そもそも読めないし、なんていう曲かわからないんだけど、ロマ(ジプシー)に伝わる曲で、七弦ギターを使って弾くものらしいな。関連動画をみてみると、Sergei Orekhovという七弦ギタリストの演奏してるものが有名らしい。
Paco de Lucia - Rio Ancho
これはすごくいいね。ギター一本で弾けたら、なにか喋るよりよっぽど効率いい気がするよな。
こうやってyoutube動画貼っていくのもいいけど、元の動画が削除されたら記事の意味もなくなるんだよね。それは虚しいので、違ったやり方を考えていくかな。
2013/10/14
#006 音で思い出す
人生のある一定の時期によく耳にしていた音楽が流れてくると、それがある感情や記憶を呼び起こすということはよくあることだろう。私の場合、Talking Headsの"Wild Life"と"Girlfriend is Better"を聴いたときの反応がそれで、憂鬱な高校時代の通学時間の風景が、ほぼ反射と言っていいほどの早さで、脳裏に甦ってくる。懐かしいとか楽しかったことであるとか、そんな良い思い出ではない性質の、そのネガティブな想起のされ方については、あまり話題にされていないように思う。
ただし、ここでそれについて深く掘り下げるようなことはしない。
最近にこれらの動画を再生したとき、かつてのような即時的な反応はもはやなく、何も感じない自分がいることに気づいたからだ。どうも忘れっぽくなっているらしい。
ただし、ここでそれについて深く掘り下げるようなことはしない。
最近にこれらの動画を再生したとき、かつてのような即時的な反応はもはやなく、何も感じない自分がいることに気づいたからだ。どうも忘れっぽくなっているらしい。
Talking Heads Wild Wild Life (HQ)
Talking Heads - Girlfriend Is Better (Stop Making Sense)
2013/10/13
#005 時間が経ったんだな
4年前だったかな、道端に置いてある自転車で、変わったハンドルのものが目に入ったことがあった。スポーツジムにあるフィットネスバイクのようなハンドルだった(詳細はここでは重要でないので省く)。ちょうど自分が自転車に乗り始めて間もない頃だったので、そんな路傍のチャリにも目が留まるような精神状態だったんだろう。
今日、その自転車が置いてあったところを通りがかって、ふと4年前のことを思い出した。4年の間に何度もその場所は通ってるんだけどね。で、その自転車はもう無いんだ。そりゃそうだよな。4年間も不動でありつづけるものなんて、そうはないよな。樹木じゃあるまいし。それで、ああ時間が経ったんだな、と思った。それだけ。
今日、その自転車が置いてあったところを通りがかって、ふと4年前のことを思い出した。4年の間に何度もその場所は通ってるんだけどね。で、その自転車はもう無いんだ。そりゃそうだよな。4年間も不動でありつづけるものなんて、そうはないよな。樹木じゃあるまいし。それで、ああ時間が経ったんだな、と思った。それだけ。
2013/10/08
#004 iOS版Blogger
評判の悪いiOS版Bloggerから投稿してみる。
と、このように携帯電話(iPhone5)での文章作成では、まるでメールや個人的なメモのように、
とりとめもなく未整理な内容になりがちだという一つの事実を発見できる。
思い出した。苦手だったな。作文。
そもそも携帯からブログ記事投稿というのはポピュラーな行為なのだろうか(なんかほぐれてないなこの文章)。
ブログ記事とは、パソコンの前に座ってじっくり書くものであるという偏見がある。
もともとブログってのは、インターネット上のジャーナリズムという性質が強いんだったかな。
ちがうかもな。覚えてないな。ブログ黎明時代…覚えてないな。
大体ジャーナリズムってなんだ?他人に噛み砕いて説明できない言葉を使ってていいのか?そんなことはどうでもいいか…今のところ、このアプリにおかしなところはない。写真のアップロードも試そう。
ちがうかもな。覚えてないな。ブログ黎明時代…覚えてないな。
大体ジャーナリズムってなんだ?他人に噛み砕いて説明できない言葉を使ってていいのか?そんなことはどうでもいいか…今のところ、このアプリにおかしなところはない。写真のアップロードも試そう。
普通だな。文章と写真だけならオッケーである。
YouTubeとか貼りたい人は面倒かもしれんね。やはりパソコンは偉大である。
YouTubeとか貼りたい人は面倒かもしれんね。やはりパソコンは偉大である。
とりとめもなく未整理な内容になりがちだという一つの事実を発見できる。
思い出した。苦手だったな。作文。
2013/10/07
#003 作文だぜな
ツイッターで、「マイナスに方向に全力で走る癖がある」とつぶやいた。
見れば(読めば)わかるけど、「マイナスに方向に」、おかしな文章だ。
「に」ってなんだっけ?助詞?
前世で学んだことは、ストレージがクラッシュしたために取り出せなくなった。
こんな短い文章でなぜ間違うのか?
「マイナスの」と、タイプしている時点で、頭が「方向に」のことを考えているのだろう。
文章を声に出して読む時は、先々の文章を視界に入れて意識していないと、
噛んでしまう(これは発声が覚束なくなるという意味)傾向にある。
文章を書くにあたっては、逆ということだろう。
同級生で、作文を書くときに文章の中の「っ」を必ず忘れるやつがいた。
何度注意されても直らず、卒業文集の作文には修正した箇所がいくつもあった。
彼は絵がうまかった。字もそれなりにきれいだった。
ひらがなやカタカナや漢字のひとつひとつが、あいつには絵に見えていたのかもしれないな。
見れば(読めば)わかるけど、「マイナスに方向に」、おかしな文章だ。
「に」ってなんだっけ?助詞?
前世で学んだことは、ストレージがクラッシュしたために取り出せなくなった。
こんな短い文章でなぜ間違うのか?
「マイナスの」と、タイプしている時点で、頭が「方向に」のことを考えているのだろう。
文章を声に出して読む時は、先々の文章を視界に入れて意識していないと、
噛んでしまう(これは発声が覚束なくなるという意味)傾向にある。
文章を書くにあたっては、逆ということだろう。
同級生で、作文を書くときに文章の中の「っ」を必ず忘れるやつがいた。
何度注意されても直らず、卒業文集の作文には修正した箇所がいくつもあった。
彼は絵がうまかった。字もそれなりにきれいだった。
ひらがなやカタカナや漢字のひとつひとつが、あいつには絵に見えていたのかもしれないな。
#002 今年見た映画
2002年から鑑賞した映画をメモするようになった。
当時の友人がやっていたのを見て真似するようになったが、
その時は「一度見た映画忘れるもんかねえ…」と思っていた。
が、メモを確認して初めて見たことを思い出せるような映画も多い。
その友人とも今では音信不通になり、いつかまた声をかけようと思っていたこと、
そしてそう思っていたこと自体をも忘れるような時間が経過していることを思い出す。
メモしたテキストファイルはいくつものパソコンを経由してきた.txtであり、
そんなことに幾許かのセンチメンタルを感じさせられることもある。
当時の友人がやっていたのを見て真似するようになったが、
その時は「一度見た映画忘れるもんかねえ…」と思っていた。
が、メモを確認して初めて見たことを思い出せるような映画も多い。
その友人とも今では音信不通になり、いつかまた声をかけようと思っていたこと、
そしてそう思っていたこと自体をも忘れるような時間が経過していることを思い出す。
メモしたテキストファイルはいくつものパソコンを経由してきた.txtであり、
そんなことに幾許かのセンチメンタルを感じさせられることもある。
- チャイナ・タウン
- ロッキー2
- スクリーマーズ
- リアル・スティール
- キミと僕の虹色の世界
- ルート・アイリッシュ
- 再会の街で
- クリーン
- あなたになら言える秘密のこと
- 夜の訪問者
- ライムライト
- ビッグ・ガン
- グライド・イン・ブルー
- 思秋期
- バトルシップ
- ダークナイト・ライジング
- 息もできない
- レディ・アサシン
- ブラザー・フロム・アナザー・プラネット
- 真夜中のピアニスト
- ダークナイト
- トータルリコール
- ル・アーブルの靴磨き
- ドライヴ
- ロッキー3
- ローラーガールズダイアリー
- マイ・ビューティフル・ランドレット
2013/10/02
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