2013/10/30

#022 真顔

最近よく使っている言葉に"真顔"という言葉がある。単に表情を指すわけではなく、姿勢、概念といった意味で(ほぼ自分ひとりだけで)使っているのだけど、きっかけは友人が発した「浜省はなにやっても常に真顔なんだよね」という言葉だった。浜省は浜田省吾のことで、彼の真摯な人間性は音楽を聴くとよくわかる(たぶん)のだが、その一方でネタ的に扱われやすい。ダウンタウンが浜省だらけの野球対決なんてネタにしてたでしょう。あの感じ。"MONEY"も有名な曲のせいか、パロディ的な扱われ方することが多い。悪意のあるものではないとは思うけどね。浜省の話はおいておこう。とにかく"真顔"という概念が発生したのは、こういういきさつでだった。
自分の中での"真顔"の概念、それは暑苦しい真剣さでも、他人に強いるような謹厳さでもなく、他者への寛容と、弱さを認める勇気、タフさ、いつも静かに微笑をたたえているような類いの、一種の人間性であると規定されるようになった。数ヶ月という時間を経て深まっていった"真顔"、この言葉をあらためて頭の中に巡らせてみたとき、思い浮かんだ名は、ケン・ローチだった。イギリスの映画監督で、作風については各自検索してほしいが、そのケン・ローチの作品である"マイ・ネーム・イズ・ジョー"の主人公が自分の中の"真顔"を体現する人物として浮かび上がった。"ジョー"は、アルコール依存と戦う失業中の中年男で、決して明るいとはいえない状況のなか、ローカルのサッカーチームの監督をし、若者たちからの人望厚い人物だ。彼は、依存症患者の集まる自助会で、自分が過去に犯した罪や、現状に対する不安を正直に口にする、そしてそれから起こる様々な出来事の結果、彼は過去と同じように再び決定的な間違いを犯すことになるのだが、彼の"真顔さ"すべてが損なわれたわけでなく、本当に小さなかすかな希望を残ったことを示して物語は終わる。正しさだけが"真顔"なのではなく、悪をなすこと、目にすることによって近づく"真顔さ"、自分を殺さない"真顔さ"がジョーという人間にあった。
こんな風に"真顔"に惹き付けられる自分はもちろん真顔ではなく、自分に正直でもなく、悪くふざけがちな人間だが、音楽、映画、なんでもいい、これからどんどん発掘していって、この"真顔さ"という概念を広めていきたい。

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