1976年のアメリカ映画「ロッキー」をご存知だろうか。知ってるに決まってるでしょうが!という声が飛んでくると思うのは、もはや古い人間なのかもしれない。ロッキーといえば、あのテーマ曲が有名でスポ根的場面で頻繁に引用される作品だ。
はじめに言っておくが、ロッキーがスポ根脳筋(脳みそ筋肉の意)映画というのは誤解だ。主人公のロッキーが脳筋の愚かな男に見えたのなら、それはあなたの目が曇っているか、あるいは彼があなたの偏見を鏡のように映しているということだろう。それから映画評論の世界では、ニューシネマで執拗に敗北を描いてきたアメリカ映画が、このロッキーでは勝利と栄光を描いたとよく言われているが、それも間違っている。脚本を書いたスタローン自身がDVDの特典映像でコメントしている。ロッキーの輝きはほんの一瞬のもので、あの夜の後はひっそりと彼の生が続いていくと。あまりに印象的すぎるテーマ曲のせいで、試合シーンとトレーニングシーンばかりに視線が注がれてしまい、カンフル剤的な消費のされ方をしてしまうのは致し方ないかもしれないが、ロッキーの名シーンはそれ以外にもあるはずだ。
この映画の柱の一つとして立っているのは、ロッキーとエイドリアンの二人の関係だが、渋るエイドリアンをデートに誘い終業時間寸前のスケートリンクで、ただただ自分の話ばかりし続けるロッキーなど、脳筋という言葉で片付けられない人間性を感じるではないか。それに映画の序盤で試合を終えたロッキーが鏡と向かいあい、傍らに貼ってある少年時代の自分の写真と今現在の顔とを見つめるシーン。典型的なアメリカ娯楽映画というくくりで片付けられないものがそこにはある。少し他作品に言及するが、1999年のイギリス映画「トゥエンティフォーセブン」で、主人公である中年男性が食料品店の女性店員をぎこちなく誘うシーン、「8mm」で娘を亡くして泣き暮らしていた母親がうっすらと化粧をしてニコラス・ケイジを出迎えるシーン、ケン・ローチの「レディバード・レディバード」で、主人公のシングルマザーがベット・ミドラーの"Rose"を歌うシーンなど、それら個人的な名シーンの系譜に連なる珠玉のヒューマニズムといっていい場面がこの作品には無数にある。そしてロッキーに登場する人物、主要キャラクター以外の酔漢や物売り、歌う若者やその他の街の人たち、ロッキーが歩き走るフィラデルフィアの路上と街そのもの、何一つ取りこぼさず作品の中に迎え入れる姿勢は、脳筋アメリカンドリーム映画とするにはあまりも人間味に溢れすぎているだろう。この映画は勝利を描いたものではないが、希望を描いた映画と言えると思う。憎しみに溢れ、醜いものを醜く描き、えぐり出すような今の時代の作品に食傷気味の諸君には、このロッキーにこそ得心がいくものが見つかるだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿