2013/11/11

#034      

親戚などの集まる場でなにを喋るということもなくただ静かに座っている、そんなお爺さんが必ずひとりはいなかったろうか。大叔父にあたる人がそうだった。食卓に座って黙って飲むか飯を食うかしている。人間の行き先のひとつとしてこの姿こそあるべきものだ、そういう気持ちになることが最近よくある。

時々、自分があまりにも喋りすぎているような気になる。声帯を震わせて発声する、そのやり方だけでなく、こんな風に文章をタイプしていくこと、写真を撮ったりすること、そんなことすべてひっくるめてあまりにおしゃべりが過ぎるのではないか、そう思うときがある。今はだいぶおろそかになってしまっているが、夜の街の写真を撮ることが日課のようになりはじめたとき、カメラを据えてそれを撮っている人間の存在が薄くなればなるほどいい、そう思って徘徊を続けていた(これは今になって思いついたことでなく、始めた当初からずっと頭にあった)。自分の存在が完全に消えて、それでひとつの風景が完結するようなそんな思い込みのようなものがあった。現実にはハンドルネームとご大層なタイトル入りで写真をアップしていたので、それを実現する気があったのかどうかわからない。

おれが日々やっているのは、空白を埋めるために喋る、ドラッグとしての発話だ。

時々、自分があまりにも沈黙しすぎているような気になる。なにかが頭の端にのぼるとき、頭蓋骨の中になにか固いゴムのようなものがあって、それで思考と発声が阻まれているような気分になることがある。なにもかもを黙ったままでうまくやり過ごせることはないのかもしれない。そんなことをメモに残していたことに気づいた。ひとりの人間の死が生きている人間に及ぼす自己省察の作用は、思いもよらぬ形をとることがある。

自分の存在を消しきった写真を撮って、それに個人的な景観という名前を与えようとしたのは、今となっては奇妙なことのように思われる。


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