2013/11/30

#053 きたな

毎日ここになにか書いてるけど辛さ感じてきたな。こんなこと書くのもインターネットにゴミのポイ捨てするようなもんで気が引けるけどおれの自己満足のために捨てさせてくれや。醜い顔してるだろうないま。

2013/11/29

#052 インターネット

減量の勢いが落ちてきて、精神的にも肉体的にも停滞してきた。そんな中で身体に良い食べ物や調理法のことなんかを考えると、すこしだけモチベーションがあがる。レシピや食材について検索をしていると、なんだかなにを調べても同じようなことしか出てこない気がしてインターネットってこんなだっけ?と首を傾げたくなることがある。インターネットの情報の中にゴミが増えたというより、ゴミばかりなのでみんなゴミのように振る舞うようになってしまっているように感じる。ブログって昔はもっと有用な情報が載ってた気がするんだがな?おれ自身もこんなこと書いてていいのか?まともな使える情報を書いたほうがいいんじゃないか?と思わされた。日本のインターネットはすべてSNSとはてなブックマークとまとめサイトに収束していくような気がして、暗澹たる気持ちになるんだ。

2013/11/28

#051 減量日記

今日は筋トレジョギングを行うつもりだったので、すこし食べる量を増やしたけど、やはり胃の内容物が少ない方が調子がいい。筋トレといってもハードなものでもないわけだし、まだ減食を続けるべきかなと思った。それにしてもARBはいいなあ(毎日聴いてる)。つぶやきみたいな日記だ。

2013/11/27

#050 食べない

一切食べ物を口にしない日、というのを実験的にやってみた。もとがもとなんで大した影響もなく終わったけど、口の中と唇が乾く気がした。水分は十分摂取していたのに。いじようです。

2013/11/26

#049 食

減量中ということで食べ物のことについて検索していたら、大豆やナッツなどの素晴らしさに気づいてしまった。米を炊く時に押麦を混入させるとか、今まで全く知らなかった世界だ。減量を考えることで逆に食生活が豊かになる気すらするな。…大豆の煮物、生姜と玉ねぎのスープ、アボカド、ナッツを砕いて蜂蜜を混ぜてオーブンにかけたグラノーラ、まだ実践はしてないけど炭水化物や肉を使わなくても、うまいメシは作れるのかもしれないな。

2013/11/25

#048 気乗り その気

やっと痩せる気になった。この、その気になるっていうのは重要なことで、いくら他人から言われても、自分で宣言をしても、ダメな時はダメってもんでこのメカニズムってのはなんなのか気になる。結局、他人をどうこうしようなんて無理な話で、なにか心が動くってのは偶然でしかなくて、狭い街角で行き違ったときにたまたま身体が触れるようなものなんじゃないかと思っている節がおれにはある。だいたい他人を説得できたことないしな。悲観的というか敗北主義的(この言葉の意味よくわからないがおれは好きじゃない)というか、友達が去っていくのだって心が離れていくのだってどうこうできるもんじゃないという、そういう冷たさみたいなもんだろうか。そんな風にずっと思ってきたけど最近は、本当はこれってよくないのかもしれないな…と思うことがある。自然なものを無理矢理どうこうするのは…みたいなよくわからないモラルに縛られてる気もする。柳ジョージの「STAY」という曲に"あの頃に戻るんだ"という一節がある。通常おれたち(いや、"おれ"か)は、あの頃にはもう戻れないもんだという諦めというか潔さというかそういうものと一緒に生きてる気がするけど、この"あの頃に戻るんだ"というフレーズは変に頭に残ってて時々思い返す。痩せる気になった話を書こうとしたのに、ずいぶんとズレたな。

ところでARBの「AFTER '45」の"狭い街角で出会った"っていう歌詞は、たまたまの出会いでたまたま心が通じた、みたいなそんな…うーん言葉にできない。下に歌詞抜粋するのでなにか感じられたら感じてください。
アフター1945 俺達は生まれ 狭い街角で出合った
揺れる1985 過去は過去のモノ 手をのばしてみる 夜明けに 
何だろうね…もう丑三つ時なんで頭も動きませんね。
ブログで歌詞引用はダメなんだっけか? まああとで考えるわ…

2013/11/24

#047 日記

あまり体重減ってないな。汗をかきにくい季節だからかもしれない。夏に運動すると目に見えて数字減ってたからな。そろそろ筋トレとジョギングを取り入れていく時期かもしれない。闇雲に歩くだけだと効率が悪い。食事のほうは良好で、だいぶ摂生できてる。摂生?節制?どっちだったか…まあいいや、朝になったらささみでも茹でるか…

2013/11/23

#046 初台

食事の量を減らして必ず歩くようにしているので少し調子が良くなってきた。少しづつ体力が戻ってきている気がする。そう思いたい。
真夜中過ぎに初台近辺を通った。山手通りを跨ぐ歩道橋にのぼって、2009年に何度かここで写真を撮ったことを思い出した。あの頃は山手通り地下の首都高速が工事中で、歩道橋も今のようなエレベーターの備わったものでなく、仮設だった。歩道もボコボコだったのがきれいに整備されており、あのどこか荒涼とした町外れのような空気はもうなくなっていた。



…あれ?やっぱり違う場所だったか?感傷的になって損したな…

2013/11/22

#045 忘れた

一日の間に色々思ったことや考えたことはあるはずなのに、いざ言葉にしようと思うと、出てこないんだよな。

2013/11/21

#044 減量

今日は食事の量を減らし、水分を多く摂るようにした。炭水化物減らせとはよく言われるが、あまりに減らしすぎてもよくない上にリバウンドしそうなので、明日からは少ない量にした上でなるべく三食を心がけるか。身体が重いと何事も億劫になってくるから、早く減らしたい。つぶやきみたいな記事になってしまった。

2013/11/20

#043 摂生

本日より、というか今から痩せることにしました。ただ運動するだけではダメだと悟り、食事減(内容にも気をつける)、有酸素運動、筋トレをすべて同時に進めていくことにしました。でもね、有酸素だ!っていってひたすら歩いてたら足の裏の皮が剥けるわ、なんとなく関節は痛いわで、もう少し体重減らしてからでないといかんようです。だからジョギングとかはまだ勘弁してください。おれからは以上です。

2013/11/19

#042 更新ペース

このまま毎日更新を続けるかどうか迷っている。毎日書くと、それだけが目的になって中身がどうでもよくなる恐れはないかと。どうでもよくなるというと今までたいそうなことを書いていたように見えるが、もちろんそんなことはないので結局同じかなとも思う。どっちにしろ、なにかを書かずにいられないなんていう衝動は持ってないんだな、結局。抑えきれない思いなんてものはもう無くなった。…なにをセンチメンタルなことを書いてるんだ、おれは。結局今日も更新しちゃったよ。

2013/11/18

#041 窓の中と街の印象

夜の散歩をしているときに街にたくさんの窓のあることを思うとなんだかグッとくるということはすでに書いたけど、その街が繁華街ではない寝静まった住宅街で、かつ川や緑が近くにあると、そういった眺めがなんだか自分が今まで触れたことないような自然さで存在しているように思えてくる。窓際の観葉植物や本棚やCDラックの影も、その内部にある人々の生活がとても健全で快活なものであることの証明に見えてきて、そんなとき窓の外を歩いている自分はなんだか幽霊のようだなあと思ったりもする。世田谷やそれより先の野川付近を訪れたとき、そんな感傷によくとらわれたものだった。街の印象というか思い込みが、似たような風景であってもそんな風に思わせるのだろう。東京生まれでありながら、東京の街に幻想を持つというのは不思議なことだ。幻想というより、現実の街に二重写しに重ねている半透明のなにかといったほうが正しい気がする。それ越しに街を見ることによって…似たようなことは前にも書いたな。こんなことばかり考えている。ほかの人たちが持ってる街に対するファンタジーのようなものをいちど聞いてみたい気がする。


2013/11/17

#040 ジョセフ・クーデルカ展に行った

今日は東京国立近代美術館のジョセフ・クーデルカ展に行ってきた(日記風に書くのは初めてだ)。いつも国立近代美術館と国立西洋美術館の区別がつかなくなるんだよな…閉館が17時だというのに、着いたのが16時頃でじっくり見る時間がなかったのは痛かった。どこか行こうと思ったら、午前中から出ないとダメだね。約束でもしてない限り、ズルズルと出渋ってしまって気づけば夜になっているということはよくある。ちゃんと朝起きてるのにな。
ジョセフ・クーデルカという人物についてはほとんど知らないまま見に行った。どういう人物かは検索してもらったほうが早いので書かないけど、デカいのから小さいのまで、やたら迫力ある白黒の写真が280枚鑑賞できると思ってもらえればいい。
写真を見ていて思ったのは、やっぱりフィルムって実体として存在感あるなあということと、写真を撮っている人の存在が感じられるなということ。正直あまり写真について考えたことがない(というかあまりモノを考えない)ので、写真の歴史や表現といったものに基づいた感想は出てこないんだけど、おれが自分の存在を消して写真を撮りたいと思っていることとは、正反対の位置にあるような気がした。そしてやっぱりおれは嘘が多いなあと思った。自分の存在を消してるんだもんな。嘘だよな。正直おれみたいなのはイカンのかもなあと鑑賞中に感じまくっていたのだった。と、まあ自分の話にもっていくのもアレなので、どんな写真が展示されていたかというと、プラハの春(検索してくれ)を撮った有名な写真のほか、雑誌の表紙になったものや演劇を撮ったもの、巨大なパノラマ写真、ロマ(ジプシー)の人たちを撮ったものなどがズラッと並んでいるのだが、なかでも亡命後に異国で撮った"エグザイルズ Exiles 1970-1994"というシリーズが印象深かった。寝転んだ足下の花と靴とか、犬とか、道路脇の樹木とか、日常といえば日常なんだけど、なんでこんなキマってるんだ?といった感じ。ビタッとしてるんだけどその中にある寄る辺なさが現れているようで、でもそれを感じきるには時間が足りなかったな。もう少し長い間見ていたかった。
800円で280枚もの写真が見れるし、常設展示もある(実際かなり見応えある)。webサイト見て気になったら、行ってみるといいと思うよ。おれももういちど、今度はちゃんと時間をとって見たいと思っている。やっぱりじっくりと見て、ノってくるまで待たなきゃいかんよ。だから次からは午前中に行くんだ。たぶん。

ジョセフ・クーデルカ展 (東京国立近代美術館webサイト)
http://www.momat.go.jp/Honkan/koudelka2013/


2013/11/16

#039 夜歩くこと

夜歩くという行為は、他のなにものとも代え難い特殊な体験であると、今日久々に散歩をしてみて再確認した。運動のためでもない、目的地へたどり着くためでもない、ただ徘徊するという行為だけがある。飲みに行ったついでだとか、ライブを見た帰りとかではダメだ。ただ歩くという行為だけがあるのが散歩である。散歩は目的を持たない行為だ。目的がない行為というのは、我々の日常ではそう多くない(インターネットは除外せよ)。
だから夜の散歩を体験したことのない読者諸君も、思いきって夜の街路に迷い込んでみてほしい…と書いたところで、夜の散歩ってそんなに稀少な体験か?と思えてきた。もしかして、おれの思い入れが異常なのでは?撮る写真もほぼ夜だし、映画や小説の作品名で夜という言葉がついただけでなにか神秘的に思えてくるし、それならむしろ夜は自分だけのものにしておいたほうがいいのでは?そんな気がしてきた…夜は俺のもの…梅宮辰夫かよ。俺の夜は夜遊びじゃないんだ、もっと神聖なものなんだ…

2013/11/15

#038 かかっている

今日聴いた音楽
ARB / 自分のプレイリスト
cools / ベスト盤から何曲か
eastern youth / 旅路ニ季節ガ燃エ落チル
eastern youth / Don quijote

eastern youthのアルバムを久しぶりに通して聴いた。
歩きながら聴いていると、歩行のリズムが自然と音楽に同調していく。
もしかしたら歩行に適した音楽を選ぶようになっているのかもしれない。
eastern youthのアルバムは気分が落ち込んでいた時期によく聴いたせいか、
再生するたびにそのとき目にしていた風景が脳内に甦ってくる。
日曜早朝の青梅街道と夜の公衆トイレで蜘蛛の巣から抜け出そうとしていたダンゴムシ。
どうみてもダメだと思ったのに、見事抜け出ていたな。

2013/11/14

#037 どうしよう

連続更新し続けるべきか こうやって書くことによって、連続更新の事実は守りつつ適当な文章でお茶を濁し先延ばしできる
いろんなことを保留先延ばししすぎてもうワケワカランよ

2013/11/13

#036

数字の6が好きだしキリがいいからこれでやめようかな

2013/11/11

#034      

親戚などの集まる場でなにを喋るということもなくただ静かに座っている、そんなお爺さんが必ずひとりはいなかったろうか。大叔父にあたる人がそうだった。食卓に座って黙って飲むか飯を食うかしている。人間の行き先のひとつとしてこの姿こそあるべきものだ、そういう気持ちになることが最近よくある。

時々、自分があまりにも喋りすぎているような気になる。声帯を震わせて発声する、そのやり方だけでなく、こんな風に文章をタイプしていくこと、写真を撮ったりすること、そんなことすべてひっくるめてあまりにおしゃべりが過ぎるのではないか、そう思うときがある。今はだいぶおろそかになってしまっているが、夜の街の写真を撮ることが日課のようになりはじめたとき、カメラを据えてそれを撮っている人間の存在が薄くなればなるほどいい、そう思って徘徊を続けていた(これは今になって思いついたことでなく、始めた当初からずっと頭にあった)。自分の存在が完全に消えて、それでひとつの風景が完結するようなそんな思い込みのようなものがあった。現実にはハンドルネームとご大層なタイトル入りで写真をアップしていたので、それを実現する気があったのかどうかわからない。

おれが日々やっているのは、空白を埋めるために喋る、ドラッグとしての発話だ。

時々、自分があまりにも沈黙しすぎているような気になる。なにかが頭の端にのぼるとき、頭蓋骨の中になにか固いゴムのようなものがあって、それで思考と発声が阻まれているような気分になることがある。なにもかもを黙ったままでうまくやり過ごせることはないのかもしれない。そんなことをメモに残していたことに気づいた。ひとりの人間の死が生きている人間に及ぼす自己省察の作用は、思いもよらぬ形をとることがある。

自分の存在を消しきった写真を撮って、それに個人的な景観という名前を与えようとしたのは、今となっては奇妙なことのように思われる。


2013/11/10

#033 今年も西田ひかるのお誕生会に呼ばれなかった

西田ひかるのお誕生会に呼ばれないまま2013年が終わるかと思うと目の前が真っ暗になる。
別に真っ暗にはならないし、だいたい西田ひかるのお誕生会ってなんだよって感じだけど(西田ひかるという元アイドルが毎年誕生パーティやるのが恒例なんだそうだ、昔の芸能界の話だろうね)、もう終わりかと思うとゾッとするどころか逆に何の感慨もなくなってきた。だったらなんでブログに書いてんだよと言われるだろうけど、去年のツイッターのログを読んでたら上記のようなことを一歳若いおれがつぶやいてたのでリサイクルしたんだ。他につぶやくことが思いつかなかったんでな。つまりこれも酒と同じように空白を埋める行為なのか…と考えると、なんだかこう生きることがそのまますべて依存症の所産のような気がしてきて、それこそ目の前が真っ暗になるな。いやそこまでじゃないか…
なんだか人間常にイニシエーションを強制されているというか、どのクランに属するかどうかの決定を強制されているような気分になることが増えてきた。話がつながってるようでつながってない気がするな…ついでに言っておくと、いわゆるホモソーシャルな付き合いというのがおれは大嫌いで、いやこれは別に特定の誰かに対する当てつけでは決してないんだけど、とにかく野郎同士の暗黙の了解的な感覚に対する嫌悪が近年急速に強まっている。かといって人に対しておれがそういう感覚をまったく押し付けていないかというとそれも微妙なところで、酒のような人間の理性に作用するようなドラッグ(悪魔が目を覚ますぞ)を前にすると若干身構える感じがある。うまくまとまった文章とは言いがたいが、こんな風に常にブレーキレバーには指をかけていなけりゃならないのだ。野獣が目を覚ますからな。

2013/11/09

#032 無

記事投稿画面と向かい合ってもう1時間ほど経っているが、今日は本当に何も出てこない。だいたい、おれはモノを考えることが少ない。考えというにはあまりにも細切れで断片的なので、それをメモしようと思っても紙に書き付けたとたんに違う何かになってしまう。文字という形をとって現れるものと、頭の中のゴチャゴチャが同じな訳がない。頭の中のゴチャゴチャは言葉だけでなく映像や音や匂いや触覚も含んだもので、だから同じなわけがない。それらを整理して文章という形にしても、もう違うものだよな。当たり前か。
ここまで書いたら、なんで毎日ブログなんて書いてるんだ?って気持ちになってきた。どうでもいいか。喋ってるみたいに書いていけばいいんじゃないの?喋るってお前は誰と喋ってるんだ?自分か?おい、今の「お前」って誰だ?おかしいな。一人増えてないか?そういえばここにはおれ一人しかいなかったはずだぞ?誰だお前!

2013/11/08

#031 過度の飲酒を避けるために

酒を飲むときのシチュエーションとして飲み屋、宴会、クラブなどの盛り場などがあるが、単純に味を楽しむ酒、付随するコミュニケーションを楽しむ酒の他に、空白の時間を埋めるドラッグとしての酒がある。あなたが手にしたそのグラスは、本当にあなた自身の身体・心が欲してのものだろうか?いや、あなたが、なんていう言い方で他人にかぶせるのはやめよう。おれは時に間を持たせるために仕方なく酒を飲んでいる。経験上これ以上はまずいな、というラインを身体は知っているように思う。なのにそのラインを飛び越えてしまうのは、空白を恐れてのことだ。恥ずかしいことだが、そうとしかいいようのない夜が多くある。煙草は吸わないし、麻薬をやったこともないが、酒に関する自分の行動を省みるとき、依存症の素質が自分にあることは否定できないなと思う。
もう一度言っておこう。おれが手にしたそのグラスは、本当におれ自身の身体・心が欲してのものだろうか?

2013/11/07

#030 間をもたせる

今日は酒を飲んだ。それほどの量を摂取したわけではないのだが、いま気分が悪い。つまりこのブログの記事にも影響する。吐くほどに自分の身体を害してしまえば、その日の楽しい記憶も幾らか損なわれるものだ。酒を飲まずに場を楽しむ、間をもたせることができる人を本当に尊敬している。間をもたせるために人は酒に手を出す。中島らもがそんなことを言ってなかったっけか。酒がなくとも場を楽しむ、間をもたせることができる人をおれは本当に尊敬している。

2013/11/06

#029 ロッキー

1976年のアメリカ映画「ロッキー」をご存知だろうか。知ってるに決まってるでしょうが!という声が飛んでくると思うのは、もはや古い人間なのかもしれない。ロッキーといえば、あのテーマ曲が有名でスポ根的場面で頻繁に引用される作品だ。
はじめに言っておくが、ロッキーがスポ根脳筋(脳みそ筋肉の意)映画というのは誤解だ。主人公のロッキーが脳筋の愚かな男に見えたのなら、それはあなたの目が曇っているか、あるいは彼があなたの偏見を鏡のように映しているということだろう。それから映画評論の世界では、ニューシネマで執拗に敗北を描いてきたアメリカ映画が、このロッキーでは勝利と栄光を描いたとよく言われているが、それも間違っている。脚本を書いたスタローン自身がDVDの特典映像でコメントしている。ロッキーの輝きはほんの一瞬のもので、あの夜の後はひっそりと彼の生が続いていくと。あまりに印象的すぎるテーマ曲のせいで、試合シーンとトレーニングシーンばかりに視線が注がれてしまい、カンフル剤的な消費のされ方をしてしまうのは致し方ないかもしれないが、ロッキーの名シーンはそれ以外にもあるはずだ。
この映画の柱の一つとして立っているのは、ロッキーとエイドリアンの二人の関係だが、渋るエイドリアンをデートに誘い終業時間寸前のスケートリンクで、ただただ自分の話ばかりし続けるロッキーなど、脳筋という言葉で片付けられない人間性を感じるではないか。それに映画の序盤で試合を終えたロッキーが鏡と向かいあい、傍らに貼ってある少年時代の自分の写真と今現在の顔とを見つめるシーン。典型的なアメリカ娯楽映画というくくりで片付けられないものがそこにはある。少し他作品に言及するが、1999年のイギリス映画「トゥエンティフォーセブン」で、主人公である中年男性が食料品店の女性店員をぎこちなく誘うシーン、「8mm」で娘を亡くして泣き暮らしていた母親がうっすらと化粧をしてニコラス・ケイジを出迎えるシーン、ケン・ローチの「レディバード・レディバード」で、主人公のシングルマザーがベット・ミドラーの"Rose"を歌うシーンなど、それら個人的な名シーンの系譜に連なる珠玉のヒューマニズムといっていい場面がこの作品には無数にある。そしてロッキーに登場する人物、主要キャラクター以外の酔漢や物売り、歌う若者やその他の街の人たち、ロッキーが歩き走るフィラデルフィアの路上と街そのもの、何一つ取りこぼさず作品の中に迎え入れる姿勢は、脳筋アメリカンドリーム映画とするにはあまりも人間味に溢れすぎているだろう。この映画は勝利を描いたものではないが、希望を描いた映画と言えると思う。憎しみに溢れ、醜いものを醜く描き、えぐり出すような今の時代の作品に食傷気味の諸君には、このロッキーにこそ得心がいくものが見つかるだろう。

2013/11/05

#028 街場の記憶

吉祥寺という街が東京西部にあってこれはおれが青春時代を過ごした思い出深い街として有名なのだが住みたい街ナンバーワンとしてメディアに取り上げられるせいか"鼻持ちならないシャレオツ勘違いサブカル"(こういう揶揄多すぎだぜ)が集まる虚無タウンとして中傷されることが多くなった。それはおいといて、読者諸君は吉祥寺サンロードにあったニューヨークという古着屋を覚えておいでだろうか?覚えてても覚えてなくても知ってても知らなくても話は別に続かないのだが、そんな風に馴染んできた街なのに、最近、というかここ5年ほど、どうにも居場所がないような所在ないような、そんな気分になることが増えてきて、あぁ終わったんだな…(なんだかわからないけど)と思うようになった。おれから言わせれば、吉祥寺はシャレオツタウンというよりは、学生街プラスアルファのような親しみ深い街なのだ。いせや(飲んだことなし)しかり、ハモニカ横丁(飲んだことなし)しかり、クリーンさからは程遠いような猥雑さこそが本質なのだ。18になるまでほとんど行ったことなかったけど。ここまで言ってアレだけど、本質とかはわりとどうでもよくて、結局あの頃つるんでた仲間とともにあった記憶を懐かしんでいるんだなと思うし、それはたまにポケットから取り出して舐めているアメのようなものだったなと思う。こんな風に昔のことを喋る(ブログだから"書く"か)時だけ変に饒舌になるのもなんだか寂しい。つまるところ、街の記憶というのは人とともにあって、それはどこまでいっても社会的な性質を持っているのかなと思う。そりゃそうだ、街は荒野じゃない。

2013/11/04

#027 追い越す

昔っから("っ"を入れて強調した)気になってるんだけど、ストリートを歩いていて、前を歩いてる人を追い越すとき、追い越すおれをチラッと警戒するように見てくる人、あれはなんなのでしょう?夜道で後ろを警戒するのはわかるけど、普通に昼間の往来であれをやられると、ただでさえ殺伐としてるのにますます荒んでくるのでね。
…わかってるよ、おかしいのはおれの方だ。と書いたところで、おかしいのはおれか?あんたらがどうかしてるんじゃないのか?という思いが…視野角が広いのかなんなのか動くものに敏感なので、いちいち気に障ることが多い気がする。だから夜でもサングラスかけてるならすべて解決する。おいなに見てんだお前!

2013/11/02

#026 同じ服をずっと着ている

寒くなって冬服を出す時期になると毎回、同じ服をずっと着ていることに気づく。冬場に着ているのは、中綿のジャケット、ナイロンの分厚いジャケット、古着の革のジャケットの3種類(2種類しか服ないと言ったな、あれは嘘)で、前2着は2006年に買ったもの、革は1999年に買ったものだ。もっと最近に買った服もあるにはあったが、あまり気に入らなくて結局売ってしまった。靴は主に履いているのは2足で、それも3年以上履いている。帽子は2002年に買ったものがいまだに現役である。Tシャツにいたっては、2001年から着ているものがある(信じられないだろうがgoodwearのTシャツは頑丈なのだ)。
なにか新しい服を買おうかというときに、すでにあるスタイルの中から選んでいく力がおれには無いなといつも思う。こういうのに乗っかっていこうとかそんなことが考えられなくて、完全にその服単品で着たいか着たくないかしか考えられない。こういう文脈の中でこういうデザインがあってだから好きとかいうのもないので、プリントTシャツもなにを選んでいいのかまったくわからない。なので無地のTシャツしか着ない。スニーカーもわからない。見た目の善し悪しを判断できないので、サイズとか機能とか頑丈さで選ぶしかない。なにかを判断するに必要な材料が足りないのか、それとも好きとか嫌いとかそういった感性がどこかの時点で摩滅したのか、とにかく膨大な衣類を前にして好きに選んでいいと言われても、おれは思考停止するだろうなという思いがある。何年も人付き合いが少ない状態が続いていたし、特に服にまったくこだわりのない知り合いしかいなかったので、そのせいもあるだろうとは思っている。
Tシャツを買おうと思っていたら、もう冬になってしまった。
靴も1足傷んで壊れかけている。

#025 窓

深い夜に街を歩いていると、灯りのついている窓がたくさんあるのに気づく。ひとつひとつの窓の中にそれぞれの暮らしがあって、というのはよくある感傷だけど、窓に映る観葉植物の影や点滅するルータのランプなどが、いかにも夜といった感じで、見上げながら歩いていると写真を撮りたくなる。人の家の窓を写真に納めるというのは倫理としてはどうなのか、あるいは不審人物と思われないか、そんなことが気になって実際に撮ることはない。写真を撮る時の自分なりの線引きというのは、無意識にいつも頭の中にあるような気がする。そして、それを口実に撮らないことも多いのではないかと、自分の行動を振り返って思うこともある。