2020/10/19

Podcastをはじめた

Podcastというものを8月半ばにはじめて、もう2か月ほどになる。
ラジオ放送については、これまでぼんやりと考えることではあったのだが、インターネットという不特定多数のいる場で声を発することは、自分にとって大変ハードルが高く、それはあくまでも頭の中だけの夢想に近いものだった。羞恥心の壁を越えて自分に放送をはじめさせたのは、昨今の状況におけるどうにもならない憂鬱や、漠然と抱えている無用の感覚だったように思う。

はじめはRadiotalkというアプリで10分少々気軽にしゃべるということからはじめた。
それも最初に声を発するまではかなりの難儀であったが、自分は外で歩きながらスマートフォンに向かって録音するという形で対処した。屋外で耳にスマートフォンをあてている行為は、 あたかも電話中であると偽装できるからだ。部屋で独り言をしゃべるよりはましだと…
生の声というのは不思議なもので、文字で追っているのと声で感じるのとでは、まるで別の人間であるかのように思える。それだけ発声という行為はリアルであり、身体的なものであるらしい。結局、今では毎日放送するようになってしまい、はじめの逡巡の記憶ももうだいぶ薄らいでしまった。とはいえ、放送の中身自体はそれほど変わりなく、自分としてはもう少しなんとかしたいと思いつつ続けている。

放送で触れた話だが、ティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』という短編集で印象に残る一文がある。

"俺は文章を書いていたからこそあの記憶の渦の中を通り抜けてくることができたんだな。"

文章を書いていなかった、自分の心情をあらわすことをしていなかった戦友は、自死することになった。なにかすることが必要だろうかと思う。誰にとっても。COVID-19以前から、なにかすがるものの必要を感じていたように思う。創作か、信仰か(具体的な宗教や神の形をとらなくても)。とにかくなんらかのなにかが必要な気がしている。

これはなんらかのなにかになっているだろうか、と思いながら、覆いかぶさってくる黒い雲から逃げるように放送を続けている。

2020/08/20

不調日記

 いつからかもわからないが、近頃具合が悪い。
身体の不調からはじまり、つぎに精神の不調が加わった。
胃の重苦しさと、ものを飲み込みづらいということに気づいたのは、2か月も前だったか。新型ウイルスのこともあり、外に出ることが少なくなったため、運動が足りてないという自覚はあった。ままにならない身体の調子に業を煮やして、食事に気をつけなるべく歩くなどの軽い運動をした。梅雨明けとともすこしづつそれらの活動を行なっていった気がする。多少は身体が動くようになったものの、つぎは精神的な落ち込みにおそわれるようになった。何を見ても悪い想像をしてしまう。この状態を打開するヒントはないかと、書物をめくる。こういうときに自分が頼るのはたいてい文学作品である。
「そんなふうに気持ちが落ち込んでいるときにだけすがろうなんて、随分と調子のいいいものだな。」
などと思いながらも、いくつかの書籍に目を通す。こんな精神状態のときにはたいてい完走できず、途中で諦めてしまうものだ。たまたまネットで読後感想を見かけたヘミングウェイの『移動祝祭日』を読むことに決めた。「もしきみが幸運にも青年時代にパリに住んだとすれば…」という冒頭の一文で有名な作品だ。ヘミングウェイがパリで過ごした若かりし日々の思い出がつづられているそうだ。これが書かれたのは1958年~60年、事実上の遺作であり、彼はその後、散弾銃で自殺している。心身の不調に悩まされた晩年に、瑞々しく情熱に満ちた若い日々のことを書くとはどういうことなんだろうか、というのが自分の目にした感想文だった。
気分の落ち込みが続く日々というのは時折やってくるものであるが、そこを抜ける時、獲得されたものもあれば死んでしまったものもあると思う。そして大抵の場合、その死んでしまったもののほうが、獲得されたものよりも多い気がしてならない。